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〈朝鮮と日本の詩人-39-〉 中野鈴子

「許南麒の詩のように」

 「詩とたたかいとは/もはや 朝鮮において区別出来ず/たたかいと詩とは/もはや 朝鮮では二つのものではない/若し 朝鮮の詩人の名のすべてを聞く人/愛国者の名を聞く人があったら/すべての朝鮮の人民の名/のこらず 挙げよう」(許南麒の詩)

 我がサークルの仲間たち/田をおこす 土方をしている/洋服屋へ 通うている/下駄屋 古着屋/奨学資金で大学にいるもの/そして 刑務所にいる我がサークルの仲間たち/我らの机とペン/ペンも 机も ありやなし/出かけに 走り書きする 立ち膝で/夜 ねむりを ぬすんで書く/ガリバンを刷る ツバメのように

 詩と 生活と たたかいと/われわれにも 区別がない/詩と生活と たたかいと 手をつかみあって進んでゆく/人民の胸と手と

 許南麒の詩のように/朝鮮人のように 人民の胸と手に

 「許南麒の詩のように」の全文である。許南麒は処女詩集「朝鮮冬物語」(日本語版)によって日本の戦後詩に新風を吹きこんだ詩人として知られ、在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)委員長、総連副議長を務めた。朝鮮戦争をテーマにしたアンソロジー「朝鮮は今たたかいのさなかにある」を編集、刊行して、ここに序詩として同名の詩をのせた。

 朝鮮戦争当時、朝鮮の詩人たちは多くが前線に出て、勝利への確信をアピールする戦闘的な詩を多数発表した。詩とたたかいは一つのものだ、という許南麒の詩的モチーフはそこから生まれ、そのモチーフを、中野鈴子は自己のものとして醸成し、許南麒の詩を引用しつつ1951年に右の詩を発表した。たたかいの中から、たたかいのための詩が、苦しい生活を糧としてつくられる過程が、リアルに表現されているのが特徴的である。

 鈴子は中野重治の妹で、福井県に生まれた。兄の影響から詩を書き始め、31年に日本プロレタリア作家同盟に加盟して本格的に詩作を始めた。虐げられた女性の生活の香り漂う詩「途中」「味噌汁」「母の手紙」が代表作で、政治的な内容を主とするプロレタリア詩に抒情性をもたらした詩風が注目された。(卞宰洙、文芸評論家)

[朝鮮新報 2007.10.22]