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〈朝鮮通信使来聘400年−11−〉 朝鮮・清・日本を結ぶ

使節往来、友好200年

朴趾源著「熱河日記」

 朝鮮は、清と日本に国の使節を送り、三国の国際交流を結んだ。

 朝鮮は、日本に清国の情報を知らせ、清には、日本の動向を伝えている。

 通信使の派遣と、東莱と対馬の定期的往来によって、情報がきちんと伝えられている。

 幕末の勝海舟なども、朝鮮の大院君から自筆の蘭の絵を送られ感謝しているように、個人レベルまで交流が広がっていたようだ。

 朝鮮から清への使節・燕行使は、638回にもなり、清からは151回にもなる。

 朝鮮から日本への通信使は12回だが、訳官使といわれる対馬行の使節は定期的に行われたし、日本の使節は、年に8回だから総計200回前後になる。

 これらの使節往来によって、相互理解は深められ、平和と友好は200年以上も続けられた。

 江戸通信使の使行録は、すべて日本語訳が出版されている。燕行使の記録は、朴趾源の「熱河日記」が日本語訳で出版されている。

雨森芳洲

 この2つの使節を比べてみるとおもしろい。

 行列の先頭の旗は、清行は黄旗(皇帝に敬意を表す)、江戸行は清道旗(朝鮮王の行列を表す)。

 送迎態勢は、清の場合は案内だけ、日本の場合は国を挙げての歓迎。

 経費負担は、清行は自己負担、日本行は日本の負担。交流の様子は、清の場合は自由な交流、日本行は選ばれた人との交流などと朝貢使と通信使の違いが鮮明である。

 使節の往来は、また貿易をともなった。

 とくに燕行使の場合、使節の一行に松商など、朝鮮商人が参加する隊商の変形でもあった。

 正使と副使は、それぞれ銀三千両、二千両を持参したので、彼らは書物を求めたり、商行為をして大きな利益を上げた者までいる。

 使節の往来が公貿易を支え、それに従う者たちによって私貿易が盛んに行われた。

「熱河日記」の表紙

 商人たちは、清の商人たちとすっかり顔なじみになり、国境地域での商いと、北京での商取引を進めた。

 松商の信用は大きく、彼らは約束手形を発行している。

 日本との貿易は、国境地域の倭館で月6回の貿易を行った。

 対馬藩は公貿易として、朝鮮に封進をあげ、回賜をもらうという朝貢形式の貿易で大きな利益をあげた。また、私貿易も行った。

 雨森芳洲は「交隣提醒」という著書で、朝鮮との外交や貿易の心得を書いて、後進に教えを残している。

 朝鮮との貿易がなくなると、乳児が母乳を断たれる如きものと、その大切さを強調している。江戸時代の朝鮮認識を「交隣提醒」の抜き書きから、その一端を見る。

 「朝鮮交接の儀は、第一人情事勢を知る」

 「撤供撤市いたした候へば、対州の人は嬰児の乳を絶ち候」

 「送便にまかり渡り候は、貿易のためにまかり候事と相心得申すべく候」

 「朝鮮に相務め候御役人…人柄もよろしく才覚これ有り義現をわきまえ、上の事を大切に存じ候にと」

 「日本と朝鮮とは、諸事風義違ひ、嗜好もそれに応じ候にて」

 「朝鮮人は…其の国の事を謙遜いたし候所に、日本人は却って我が国の事を常に自慢のみいたし候」

 「しかし朝鮮人の才智は、日本人の及ぶ所にあらず候」

 「朝鮮を礼儀の邦なりと唐より申し候は…事事礼儀にかなひたる邦との事で…外の夷狄にはまさり候故」

 「誠信の交と申す事…実意と申す事にて、互に不欺不争、真実を以って交り候」

 江戸時代の人々は朝鮮に敬愛の情をもっていた。貴重な歴史体験といえる。(金宗鎭、社協東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.11.2]