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〈朝鮮史から民族を考える 3〉 朝鮮民族の形成発展

200の国家、4千〜5千の民族

民族の形成

縄文人(左)と渡来系弥生人の頭蓋骨

 現在、世界にはおよそ200の国家が成立しており、その内部に、四千から五千といわれる民族集団が取り込まれている。世界の民族の歴史を全体として包摂するような発展理論や概念は、いまだ、われわれは持ちえていない。民族形成、国民国家の形成については、世界史的に見るとききわめて多種多様なものであることがしられる。ただ、人間集団の歴史は、血縁集団、それらを統合した民俗集団、中世における民族、近代における国民という大ざっぱな発展図式が、仮説として想定できよう。国民国家の成立は近代固有のものであって、前近代からの民族の発展過程の自然的結果としてうまれたのではない。

 前近代のさまざまな歴史的事件や伝説に国民的感情を読みとるのは、多くの場合、近現代の心情が投影されているからである。国民国家の本質からしてそのような伝説や神話が求められやすいのだ。民族問題そのものは前近代社会にもあったかもしれないが、歴史的にみて民族問題として考察されることはない。つまり具体的な民族問題は近代に限定された問題である。

 そうなってきたのは、近代国民国家の成立が民族問題を顕在化させたからであろう。他民族を包含する前近代国家においては、民族の雑居、複合的存在が常態であって、民族問題が顕在化することはなかったと思われる。

 民族の形成発展を世界史的に鳥瞰するならば、封建的な分割状態が解体され、資本主義的市場経済が形成されながら出帆したヨーロッパの民族と、長期的に伝統として強固になった中央集権的権力構造のなかで、早い時期から形成されてきた東アジアの民族は、その始原、形成、発達過程が異なるといえよう。

中国、日本

奏の始皇帝

 中国は巨大な多民族国家である。何千年も前から続く幾多の民族の融合と分化の末に、現在では漢民族とその他55の少数民族が共存している。漢民族の起源を探れば、殷周交代にまでさかのぼることができる。

 紀元前11世紀ごろ、中原(黄河中流・下流地帯)に居住する殷族と北西からやってきた周族が混交し、いまにいう漢民族の母胎ができあがった。ついで春秋から戦国の時代にかけて、漢民族の勢力が揚子江の流域に達し、ついに秦漢以降には華南に進出して、その異民族を漢化していった。他方、北方民族の侵入を不断に受け、その過程で民族の混合が進んでいった。このように絶え間ない人種、民族の混合過程が進むなかで、言語構造にさまざまな違いが生まれた。

 現代中国語は北方方言を基礎にして、蘇州方言、厦門方言、梅県方言、広東方言などに大きく区分される。中国の領域は清国末期に至りほぼ現在の広さにまで拡大する。その後、帝国主義列強の侵略により、中国は四分五裂の局面に陥るが、中華人民共和国の樹立によって清末の領域をほぼ回復する。このような歴史的経緯は、中華人民共和国が、中華帝国の継承としての「中華民族」国家の特質を帯びていることを示している。

 日本列島の住民のなりたちは、在来の縄文人(南モンゴロイド)と、弥生以降の渡来系の人びと(北モンゴロイド)の双方を視野に入れてとらえなければならない。現在のアイヌ民族、琉球民族は、南モンゴロイドに属する先住民族であるが、大多数を占める「日本民族」は、弥生以降に大挙して朝鮮半島から渡来するようになった北モンゴロイドと在来の南モンゴロイドが混合して形成された集団である。

 あるシミュレーションによると、現代の日本人は全国平均で縄文系3、渡来系7の割合で双方の遺伝子を併せもっており、西日本ではさらに渡来系の比率が高いといわれる。「新撰姓氏録」(815年)によると、畿内の1182の氏のうち渡来系と分類されている氏が326におよぶ。7世紀後半に成立する「日本」なるものは、そうした弥生文化とその系譜のうえに創出されたのである。この点をあいまいにしたまま、縄文文化と「日本」を無媒介に連続させ、「日本人」や「日本文化」の起源をむやみにさかのぼらせるのは適切なこととは思えない。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2007.11.9]