〈朝鮮史から民族を考える 4〉 朝鮮民族の形成発展 |
開放的な前近代の「民族」意識 朝鮮民族の形成
中国の東方に位置する世界で、最も早く国家形成のメカニズムが始動するのは、朝鮮半島の西北部を中心とした地域であった。檀君朝鮮や箕子朝鮮の伝説の信憑性はともかく、紀元前4〜3世紀にはこの地方に「朝鮮王」と称する首長が存在したことはまちがいなく、紀元前221年に秦が中国を統一した際、朝鮮王の否が始皇帝に使者を送っている。「魏志」東夷伝には、2世紀以前に中国東北部から朝鮮半島にかけて居住する東夷諸族の様子が詳しく記載されている。北方に夫余・高句麗、東北沿海地域に挹婁・東沃沮・濊、西北沿海地域に楽浪・帯方、南部に韓(馬韓・弁韓・辰韓)と分立していた。5世紀前後期には、北方や両沿海地域の諸族が高句麗に統合されていった。高句麗族と韓は、言語、慣習、交流関係から見て、同じ系統に属する民族集団と見ることができる。その後、高句麗・百済を統合した後期新羅、渤海の高句麗人を編入した高麗の強力な中央集権体制のもとで、朝鮮民族としての同質性はさらに強まっていった。 朝鮮の姓氏275個のうち帰化姓氏はおよそ半数の136個を占める。そのうち、新羅期の帰化姓氏は40余個、高麗期60余個、朝鮮期は30余個である。帰化姓氏の圧倒的多数が中国系であり、ほかにモンゴル系、女真系、ウイグル系、アラブ系、ベトナム系、日本系などがある。多くの者が国王と政府の厚い保護を受け、姓と本貫を下賜されている。帰化姓氏が高麗時代に多かったのは、高麗の国力が強く、対外交流が盛んであったことと関連している。 世界的に、前近代社会における共同体は、親族関係や主従関係のネットワークから成立しており、個人のある集団から別の集団への帰属移動は、そのままその個人の民族名のシフトにもつながった。他方、近代社会成立以降には、個人が生まれながらにもっている「民族」帰属は、彼(彼女)がどこの国に移住し帰化しようと不変のものとなる。このように前近代における「民族」は、近代に比べ、可変的かつ開放的であったのである。 女真族について
女真族は靺鞨族(または肅慎、把婁、勿吉ともよばれた)の後裔で、後の満州族の前身である。靺鞨族は紀元前後期にはすでに松花江、黒竜江、沿海州、朝鮮東北地方(咸鏡道)一帯に居住し、言語、慣習などを夫余、高句麗とは異にしていた。最初は夫余、高句麗と対立していたが、5世紀末から6世紀初頭ごろに高句麗に臣属し、その後、高句麗、渤海の住民構成をなした。首都や地方都市には支配集団である高句麗人が居住し、辺境地方では被支配者の靺鞨族が生活していたと考えられる。高麗時代には女真族とよばれるようになり、高麗の境界地帯=千里長城の外側に居住していた。 13世紀後半以降、高麗人も徐々に地方進出し、高麗人部落をつくり、女真部落と併存していった。15世紀中葉、朝鮮王朝は鴨緑江中流と豆満江流域への遠征を強行し、女真族を両江以北に追いやる。四郡六鎮を設けてそれ以南の地域への入植・開墾が進められ、ほぼ今日の朝鮮の領域が確定された。しかし、先住地に残留した女真人や、その後、舞い戻ってきた人々も多かった。 その後、多くの女真人は「向化」(同化)して、朝鮮人住民に吸収されていくが、独自の共同体を維持していく女真集団もいた。植民地期、日本人学者・今西龍は、当時、咸鏡道北部地方で「在家僧」部落とよばれている集落を調査し、そこが女真族の部落であることを明らかにした(「在家僧」1915年)。「在家僧」部落の調査は、解放後の1950年代に朝鮮の民俗学者により再び行われた(「咸鏡北道北部山間部落〈『在家僧』部落〉の文化と風習」1960年)。道内に散在する女真部落、計1031戸を対象にして、その起源と変遷、文化と風習などを調査した。 調査は結論部分で次のように記している。「女真的要素は単に『在家僧』部落だけではなく、咸鏡道全体にわたってみることができる」「咸鏡道に居住する多くの先住女真人が向化(=同化)し朝鮮人のなかに合流した」「朝鮮人、朝鮮民族は、古代における諸種族だけではなく、中世における女真族をも包摂して、形成されたのである」と。(康成銀、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2007.11.15] |