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〈朝鮮の風物−その原風景 −4−〉 チャンスン

民衆の信仰の中で生きた守護神

 チャンスン。朝鮮の民俗文化遺産の一つとして、あまりにもよく知られた存在である。しかし、昨今では博物館や歴史民俗資料館以外ではなかなか見ることができない。

 チャンスンとはいうまでもなく、集落の入口や道端に立てられた木像や石像で、村の守護神、境界標識、里程標などの役目を果たす民間信仰の一つである。

 木や石の上部に威嚇的な人面を刻み、下部には天下大将軍、地下女将軍などの文字を書く。かっと見開いた目、裂けた口とむき出しの歯は、疫病や悪霊、外敵を威嚇し追い払うにふさわしく、この威嚇の形相はギリシャ神話に出てくる、髪は蛇、猪の牙を持つゴルゴンや、睨まれると石に化すというメドゥーサ、東洋の鬼神、金剛力士、仁王らに共通する。これがともに魔除けの役割を果たす点もまた共通する。

 反面、チャンスンはその恫喝、威圧的な形相の割には、どこかユーモラスでおどけたところのあるところがおもしろい。木柱はまっすぐなものよりくねったものが少なくなく、人面の造形の妙も千態万様で、ユニークなアフリカ仮面の感性をも凌ぐものであり、朝鮮の仮面戯のタル(仮面)と奔放自在さを競う。チャンスンには男女像がそれぞれあり、男チャンスンには天下大将軍、女チャンスンには地下女将軍の文字が刻まれる。

 近代に朝鮮を訪れた外国人がまずおどろき、関心を示したものの一つがほかならぬこのチャンスンだった。チャンスンの存在自体が外国人にはものめずらしかったのに加え、木や石に刻まれたその独特でグロテスクな形相に異文化を感じたのかも知れない。

 ドイツのエリンスト・オペルトは「朝鮮紀行」(1882年)で、チャンスンのユニークな形相について驚きと感嘆をこめて記しており、英国のイザベラ・バードは朝鮮各地の道端に立つチャンスンには、「千年前に悪行を働いた国賊をモデルとした奇怪な人間の顔が描かれている」とまことしやかに述べ、朝鮮の鬼神信仰を論じている。 

 チャンスンの起源については、新羅、高麗時代、寺院の寺田などの境界標識として建てられた「国長生庫標識」説、ソッテ(蘇塗)、立石、神木から派生したとする原始民間信仰起源説、ツングースなど他民族と関連づける比較民族起源説、古代男根崇拝に由来するとする説など諸説があるがはっきりしない。

 その分布も、朝鮮半島の南部に多く、とくに湖南、嶺南に集中するという特徴がある。呼びかたもチャンスンのほか、ポクス(法首)、スサル、トルハルバンなどと異なるが、チャンスンというのが最も一般的である。19世紀末、チャンスンが日本の山形県の海岸に漂着したという記録もある(「チャンスンとポクス」キム・ドゥハ)。

 いずれにせよ、その起源は三国時代に遡るとみられる。そして朝鮮王朝の初期に「経国大典」に基づいて全国の官路、軍路など主要道路に十里間隔で路標を立てた後に、人面を彫った今日のチャンスンの初期的な形態が形成されたと考えられている。

 今日わたしたちが目にするチャンスンは、朝鮮王朝の末期に形成されたスタイルである。朝鮮王朝末期にはこの路標は廃されるが、村の守護神としてのチャンスンは民衆の信仰のなかに深く根を張り存続し、こんにちに至っている。

 しかし、民衆は守護神としてのチャンスンを信仰する反面、それが守護神の役割を果たしていないことをも充分承知していた。それは「ポクス(チャンスン)のようにぼうっとしている」(チャンスンみたいにのろまだ)ということわざをみても理解できよう。のろまで間の抜けた人を、民衆はチャンスンにたとえてその無能さをあざけっているのである。また、「チャンスンの顔にうどん粉をぬりつけて代を払えという」のは、とんでもないことをいう人を揶揄することわざである。

 このチャンスンも解放後、急速に姿を消していった。とくに都市化が進んだことは他の文化遺産の衰退と共通する点であるが、チャンスンの場合は前近代的な「迷信の打破」という問題が伴い、それが減少をさらに早めたのである。

 最近、文化財としてのチャンスンが見直されるようになったことは好ましいことだが、安易なレトロ趣味的なものも少なからず見受けられ、随所に文化財と相容れない新チャンスンが登場するケースもあると聞く。

 人間界のこうした有様は、チャンスンの目にどう映っているのであろうか。(絵と文 洪永佑)

[朝鮮新報 2007.11.26]