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〈朝鮮通信使来聘400年−12−〉 江戸の通信使とオランダ人

2千人の大行列を百万群集が見物

宗安寺の赤門

 今の日本人は、長崎が海の表玄関であったと思い込んでいる。

 しかし、江戸の人たちは、通信使が国賓であり、オランダ商館長は一介の異国の商人に過ぎないことを知っていた。

 通信使一行約500人を、老中を先頭に幕府の首脳たちが総出で出迎え、諸大名が総力を挙げてもてなす。これだけでも十分なのに接待費用のために課税までされたから、江戸時代の人たちは通信使の大切さを身をもってわかっていた。

 沿道歓迎の人々の中を、合わせて約2000人の大行列が行く。それを百万の群衆が見物する。

 一方、オランダ商館長の一行はわずかに4〜6人、役人と人足を加えても約60人の行列である。

 役人の監視の下に、屈辱感を感じながらオランダ人は江戸に案内される。

 決定的な違いは、江戸城における徳川将軍の接見のありようである。

 通信使と親しく言葉を交わし、城内宴では御三家のもてなしを受ける通信使に比べて、オランダ商館長のあつかいは粗略なものである。

 商館長は名前を呼ばれて、跪き面を伏せたまま前に進み、またそのまま這いずり下がる。これで接見が終わる。

 いや、一介の商人だから接見だけでも過分な待遇であると言えるかもしれない。

 江戸時代の朝鮮人気は高く、通信使から書き付けでもらうと大喜びで、多くの寺では扁額を書いてもらい、寺の宝としたものである。

 1819年に刊行された「江戸買物独案内」には、べっこう店のうち、24店が「朝鮮」の文字を、看板に書いて掲げていたと書かれていたという。

 江戸の人たちは、今の人たちより朝鮮の歴史にも明るかったようだ。

 使行録には、高句麗が隋の大軍を打ち破ったことを、江戸の武家が話題にしていたことが記されている。

 また、秀吉の大軍が、朝鮮の義兵にさんざんな目に遭ったことを知っていた。

 とにかく、江戸時代ほど朝鮮と日本の2千年の交流史の中で、ひときわ交流の深い時代はなかったと思われる。

 今までの常識では、「飛鳥・奈良時代の関係が、もっとも濃密であった」と考えられてきた。

 しかし、国と国の総合的な関係を考察してみると、江戸時代こそ、最も濃密で良好な、友好的な時代であったと言うべきであろう。

 最近になって、ようやく江戸時代の朝鮮通信使の研究や、見直しが始められている。しかし、通信使を単なる文化交流として捉えている。たしかに、戦前の「通信使は朝貢使節」とした歴史のわい曲は否定され、前進はある。

 例えば、彦根城の城門前にある、宗安寺の赤門と黒門に関する由来に修正が加えられた。かつては、朝貢使をその正門から入れるわけにはゆかないので、非常口をつくって入れたと説明してきた。しかし、本当の話は、国賓を接待するためとはいえ、正門からの肉類の搬入が憚られて、特別な搬入口をつくったとのことである。

 まさにこのエピソードが語るように、朝貢使として見下す話を故意に造作すれば、友好の気持ちは消え失せるであろう。

 明治の時代に、政府によって通信使の足跡は消去され、行事は中止され、教育の場でわい曲された結果、江戸日本と朝鮮の友好の歴史、日本の近代化を準備した江戸時代の発展が過小評価された。

 朝敵と植民地の物差しで歴史が創作されたからである。(金宗鎭、社協東海支部会長、終わり)

[朝鮮新報 2007.12.1]