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〈朝鮮史から民族を考える 5〉 近現代日本の対外関係の基底

先の戦争をどう見るか

「太平洋戦争」

江華島で朝鮮軍と砲撃を交え砲台を占領した「雲揚号」

 日本の近現代史は第2次世界大戦の敗戦を境に、いわゆる「戦前」と「戦後」に分けることができる。そこでは、先の戦争の起点をどこに見るかということが日本近現代史の把握において重要なポイントとなる。

 現在の日本では、先の戦争というと「太平洋戦争」と答える人が多数を占める。1941年真珠湾攻撃に始まる対英米戦争というとらえかたである。この見方は、敗戦直後の45年12月、GHQの指令によりすべての全国紙に「太平洋戦争史」が連載されることにより定着していった。

 その内容は、@中国や植民地民衆による抗戦の持つ意味への軽視、A天皇・「穏健派」=軍部に対する抵抗者という把握、B日本国民=軍国主義的な指導者による犠牲者という位置づけからなっている。その後の東京裁判やサンフランシスコ講和条約の質が、すでにここにあらわれていたのである。

 日本側も米国の対日戦後構想を積極的に逆利用して、戦争責任を軍部にだけ押しつけ天皇をはじめとする旧支配層の免責を図っていった。

 いわば「太平洋戦争」史観は日米の歴史認識同盟≠ネのである。

「15年戦争」

 ところが一方、「太平洋戦争」ではなく「15年戦争」という呼称を使う人々がいる。この見方は、1931年の「満州事変」から日中戦争、太平洋戦争までの戦争は、連続した侵略戦争であるという認識に基づいている。

 鶴見俊輔が最初にこの言葉を使ったとされ(「知識人の戦争責任」56年)、これが1960年代後半から歴史研究および歴史教育の場で定着していく。しかし、鶴見はその後、「西洋諸国の植民地にされないように、みんないっしょになって日本を守っていかなければならないという共同の意識と結びついて」いた「日露戦争中の日本の政治および軍事の指導層の特徴」は「昭和の15年戦争が始まる前に消えていました」(「転向について」79年)と述べたように、「15年戦争」史観は、日露戦争までの日本は良き時代であり、昭和時代は悪しき時代であったとする歴史認識であった。

 明治を「栄光の時代」と肯定する見方は、国民作家・司馬遼太郎の作品によって社会に広く共有されるようになる。世界的な歴史家・江口朴郎も、「日清・日露戦争はあの場合の世界史的条件のもとでの、一定の問題の解決であった」とする論を展開した。

 日本の独立のために両戦争は必要悪であったとする歴史認識は、日本を主語として語ることで増幅される自国中心主義であり、それは被害国である朝鮮・中国をいわば客体にすぎないと見る一面的な評価ではないだろうか。両戦争期には、幕末期に「間々見られたような日本の半植民地化へのまじめな危機意識は現実には既に遠のいていた」(芝原拓自)にもかかわらず、明治政府は日本の民衆の国権熱を煽るために、清国やロシアの脅威を過度に強調していたのである。

「50年戦争」

日清戦争時、ソウル鐘路を行進する日本軍

 最近では、敗戦の起点(原因)を日清戦争(1894〜95年)にまでさかのぼる「50年戦争」説が言われている。この観点にたてば、認識上、実に多くの事柄が浮かび上がってくる。@「満州事変」に先行する日清・日露戦争の結果としての台湾、南サハリン、朝鮮などの植民地過程を認識の射程にいれることができる。A台湾、朝鮮を植民地化するためにはその前提となる両戦争だけでなく、朝鮮・台湾の民族的抵抗運動とのあいだに「植民地戦争」というもう一つの大戦争が必要であった。B日清戦争は日本の軍事体制と天皇制の根幹を決定する画期となった点で、その後の日本の質を規定した。C「50年戦争」は、それ以前の「台湾出兵」「雲揚号事件」などとつながっていたことから、明治初年以来の日本の近代そのものを問う視点を与えてくれる。D靖国神社には「台湾出兵」「雲揚号事件」で「戦死」した軍人が祭られている。靖国神社の歴史は日本植民地主義の全歴史と重なっている。Eポツダム宣言の内容に符合する。同宣言は、日本に朝鮮や台湾を放棄させ、日清戦争以降50年にわたる日本の国家的営為の総体を指弾した。それを受け入れたところから日本の戦後が始まるはずだったが、周知のとおり、実際には戦後処理の性格は大きく後退してしまった。

 このように近代日本史の把握において、「15年戦争」では見えにくいものが「50年戦争」では見えてくる。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2007.12.1]