〈朝鮮史から民族を考える 6〉 近現代日本の対外関係の基底 |
日本政府の変わらぬ朝鮮認識 「敗戦前」
現在、日本の対外関係について、戦前は対中国関係、戦後は対米国関係が基本であると見る理解が一般的である。 しかし、そのような見方は皮相的な理解であると思う。日本の対外関係の根底には朝鮮問題が常に重要な位置を占めていたのである。 日本の近代国家としての成長はまさに朝鮮、中国に対する侵略と表裏一体の関係にあった。 明治初年の「征韓論」は、@思想的には吉田松陰の「征韓論」(国体論=天皇中心の国家論によって理念化された朝鮮侵略論)を継承A維新直後の政治的不安定を朝鮮侵略によって外に転嫁するB政治、経済、心理的にも、朝鮮を侵略すること−によって欧米からの圧迫の代償を得ようとしたのである。 だから1874年の「台湾出兵」、翌年の「雲揚号事件」はこうした考えから意図的に引き起こされたのだと見るのが妥当だろう。 1890年、山県有朋首相は第一回帝国議会の施政演説で、朝鮮を日本の「利益線」と位置づけ、その支配のために軍備拡張が必要であると力説した。 その後日本は、朝鮮「保護国」化構想を固めて、対清開戦準備を本格的に進めていく。1928年、田中義一内閣は中国の革命軍と軍閥軍の両者に5.18覚書を渡し、革命軍が満州に入ることは許さないと警告した。
その理由について田中は、満州には百万余の朝鮮人がいるため、同地方の秩序が紊乱すれば、ただちに朝鮮統治に重大な影響を及ぼすので、政府としてはこれを看過できないと説明している。 太平洋戦争開戦の直前、陸軍大臣東条英機は閣議で、米国の中国撤兵要求に対して、「撤兵問題は心臓だ。(中略)米国の主張に服したならば支那事変の成果を壊滅させ、満州も危うくなり、さらに朝鮮統治も危うくなる」と強弁している。 このように、日本の為政者の意識の根底には朝鮮の存在が常にあった。 敗戦直前の1945年5月、最高戦争指導会構成員会議で「対ソ交渉方針(我譲渡範囲)」を決定した。これは和平工作の仲介者としてのソ連と交渉するとき、どういう譲歩をするかを決めた文書である。 文書には、千島列島や満州を「譲渡」しても、「朝鮮ハ之ヲ我方ニ留保スルコト」とある。日本の敗戦必至というこの期に及んで、なおソ連に期待をつなぎ、朝鮮の植民地支配を維持したいと考えていたのである。 こうした考えは、敗戦後、今に至るまでいささかも変わっていない。 「敗戦後」 敗戦直後に作成された外務省、大蔵省などの文書を見ると、そこに戦後処理に関する文書がいくつか含まれているのがわかる。 そこに示されている基本的立場は、日本の朝鮮に対する植民地支配の正当化、美化である(合法的に朝鮮を取得、近代化に貢献した等)。 戦後、日本政府の高官が朝鮮に対する植民地支配を正当化した発言は多いが、それらの発言が決して個人的なものではなく、日本政府の基本的な考えであることを、これらの文書は雄弁に物語っている。 敗戦から約20年が過ぎた時点でも、日本政府の朝鮮認識は「戦前」と何ら変わることがなかった。日本政府は「歴史的に見ても、南朝鮮を敵対する勢力に渡さないことが、日本の対外政策の第一の目的となってきた。 明治以来、日本が戦うべき正当な理由をもって戦った日清、日露の両戦役はともに、南朝鮮が敵対勢力の支配下に陥ることを妨げるために戦われたものである」(内閣官房内閣調査室『調査月報』1964年9月号)と考えていた。1961年池田・ケネディ共同声明や1969年佐藤・ニクソン共同声明などの交渉においても、公然と「中国の問題よりも韓国問題の関係こそが日本にとっては喫緊の要務である。もし釜山に赤旗がはためくような事態に立ち至るとすれば、日本の安保はどうなるのか。アメリカは熟考してほしい」と語られた。 現在も、朝鮮半島情勢が6者会談の進展や朝米の対話ムードなどで好転しているにもかかわらず、日本だけが「拉致問題解決」をうんぬんしながら国際会議を妨害し続けている。 歴史的に見て、朝鮮という隣国をどのように認識し、それに対してどのように行動するかということが、日本の対外関係の基底をなしたのである。(康成銀、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2007.12.3] |