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〈本の紹介〉 司馬遼太郎と朝鮮

思想の根源に横たわる蔑視観

 司馬遼太郎が朝鮮に関するものを素材として、最初に書いた小説が「故郷忘じがたく候」である。この作品には、豊臣秀吉の朝鮮侵略・壬辰倭乱(日本では文禄・慶長の役)の際に、拉致してこられた陶工のその後が描かれている。司馬自身、愛着があると記しており、彼の朝鮮や李朝陶磁に対する思いのたけは、この作品に余すところなく描かれている。

 私が司馬の書いたものを読んだのは、たまたまこれがはじめてであったから、司馬という作家は朝鮮への愛が強い人なのだと、そのときは思った。

 すでに世間ではそのように評価されていたらしく、司馬自身も、朝鮮に対するよき理解者であり、かの国の民衆の友人であると自負していたと思われ、「街道をゆく二」(朝日新聞社)に、私の朝鮮への関心のつよさは、私がうまれて住んでいる町が大阪であるということに多少の関係があるかもしれない−と書いている。

 さて、「故郷忘じがたく候」と「坂の上の雲」の間にある司馬の朝鮮観にはなはだしい隔たりがあると言われていて、確かにそのとおりであるが、「坂の上の雲」は1968年の4月からサンケイ新聞紙上に連載を開始しており、不思議なことに「故郷忘じがたく候」も同じ年の6月に発表されている。司馬は「坂の上の雲」執筆のために、国内外から膨大な資料を蒐集して、読破し構想を練るのに5年を費やしたと言われるから、「坂の上の雲」の朝鮮観は、このときすでにでき上がっていたと言っていい。

 司馬が「坂の上の雲」で、日露戦争を自衛戦争あるいは祖国防衛戦争と表現して、正当化したことは広く知られている。しかしながら、日露戦争が日清戦争とともに朝鮮への侵略戦争であることもまた自明のことであってみれば、司馬は日清・日露戦争を賛美し、日本の帝国主義的成長を称えたと非難されても、なんの反論もできないであろう。自衛と言おうと祖国防衛と書こうと戦争に違いはなく、良い戦争と悪い戦争があるという道理もない。

 いったい「坂の上の雲」と「故郷忘じがたく候」の間にあるずれは、なにに起因するものなのであろうか。実は司馬は、「街道をゆく二」の中で、次のように驚くべきことを、すんなりと書いている。

 「それは暴虐なる日帝30余年の支配によるものです」

 と、韓国の知識人は例によって千枚透しの錐のようにするどい怨恨的発想の政治理論でもって規定しきってしまうかもしれないが、日帝がいかに暴虐であろうとも−げんにそうだが−しかし長い朝鮮史のなかでその期間はたかが30余年であるにすぎない。李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なようにおもうのだが、しかし私の知りうるかぎりの朝鮮人で、このことをいったひとにただ一人しか私はめぐりあっていない。

 この文に象徴される朝鮮への蔑視が、司馬の思想の根源にあって、それが「坂の上の雲」では、日清・日露戦争を美化した、新興国日本の美しい物語となり、朝鮮侵略を隠ぺいしたと思われる。だから、「故郷忘じがたく候」において、陶工の末裔である沈寿官が韓国の講演で、「36年を言うな」と学生たちに語ったと、さも意味ありげに書いたのも理由のないことではない。

 朝鮮を併合という形で奪ってしまうという、愚劣なことが日露戦争ののちに起こるのである−と、司馬遼太郎は、日清・日露戦争を美化した同じ筆で、きれいに口をぬぐったように書く。朝鮮半島の友人の前で気が引けるのだ、と。しかも、そうでありながら同じ文のあとの所では、朝鮮を植民地としたことが、「けっして儲かるものではないと思うのです」とさえ書いているのである(「『昭和』という国家」)。

 このどうしようもない自己矛盾こそが、世に「司馬史観」と言われて、もてはやされているものの実態である。

 「錦絵の中の朝鮮と中国」(岩波書店)で、著者の姜徳相氏は、つぎのように記している。

 「坂の上の雲」の面白さを否定するわけではないが、司馬であれ、誰であれ、どの作品でも他民族の命運にかかわることは、かかわられた側がどう受容したのか、という視点があってもよいと思う。(備仲臣道、批評社、1800円+税)

[朝鮮新報 2007.12.10]