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〈人物で見る朝鮮科学史−45〉 世宗とその時代C

世宗の右腕、李蕆

甲寅字による印刷本

 科学技術を国家的プロジェクトとして推進するためには、優れた科学者・技術者とともに、彼らを組織動員する人物が必要となる。世宗の右腕となってその役割を果たした人、それが李蕆である。李蕆は高麗末期の名門の出身で、彼の母は当時権勢を誇った廉興邦の妹である。ところが、その横暴さは目にあまり、禑王は崔N、李成桂らとともにその勢力を一掃、李蕆の父もその時に処刑されている。幼い李蕆は母と弟とともに山中に逃れたが、幸いしばらくして王朝交代が起こり李蕆も再び世に出る機会を得た。

 17歳の時に別将に任命された李蕆は、1402年22歳の時に武科に、1410年には重試験に及第し、その後、軍人として対馬を拠点とした倭寇の平定や北方の女真族の撃退において大きな功績を上げる一方、世宗の科学技術政策を推進するテクノクラートとしての道を歩んだ。とくに、漢城の保守や簡儀台の構築など世宗時代の大きな工事の多くは李蕆が監督遂行している。

 なかでも太宗陵を造営する際には王の棺を運搬するための「四輪車」を考案したと「世宗実録」には記されているが、彼は技術者としての才能も持ち合わせていたのである。とくに、それが発揮されたのは金属活字の鋳造である。高麗時代に発明された金属活字は太宗3年(1403年)に大量に鋳造されたが、それが完成の域に達したのは世宗時代である。それまでは蜜蝋に活字をはめ込んで製版していたが完全に固定できず、わずか数枚しか印刷できなかった。

日星定時儀

 そこで世宗はその欠点を克服するよう李蕆に命じた。李蕆は若干大きめの柘植の木に字を彫りそれを丁寧に削って大きさを合わせ、次にその型を採るために普通の砂ではなく、海藻が生えている所から採取したより細やかな砂を用いた。このような工夫の末に1420年に鋳造された活字が「庚子字」である。そして、版を組む際に活字が動かないように隙間を木片で埋め大量の印刷を可能とした。さらに、1434年世宗はより美しい字体を求めて再び李蕆に活字の鋳造を命じるが、この活字こそ朝鮮王朝時代もっとも美しいといわれる「甲寅字」である。

 さらに、李蕆は各種軍事武器の改良においても大きな業績を残している。まずは崔茂宣が考案した大中小の碗口をより機能性を持たせた武器に改造し、これが女真族を撃退するうえで大きな威力を発揮した。軍事行動においては正確な時間の測定が必要となるが、李蕆は蒋英実とともに、夜でも時間を知ることができる「日星定時儀」を考案した。これは、日時計が主な当時にあっては画期的な発明であった。その他、より速度の速い兵船の建造や各種武器の規格化を果たしている。李蕆と蒋英実、彼ら二人がいなかったら、世宗時代の科学技術はこれほどに花咲くことがなかったのかもしれない。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2007.12.14]