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2人の高句麗使節を描く サマルカンドの宮殿壁画

 約千年の間(紀元前277年−668年)存在した高句麗は、周辺諸国と対外関係を結び、民族の自主的尊厳と気概をとどろかした東方の強大国である。

 歴史記録によると、高句麗は隣接していた西方と北西方地域の24カ国と対外関係を結び、活発な外交および貿易活動を行った。これは、サマルカンドの宮殿壁画を見てもわかる。

 1965年に旧ソ連の加盟共和国であったウズベキスタンのサマルカンド市にあるアフラシャブの都城址の第3城壁内部で発見された壁画には、数千キロの大陸を横断して西域(こんにちの中央アジア)で外交活動を行った高句麗使の姿が描かれている。発見された壁画は、650〜655年頃の史実を描いたもので、そこには当時、サマルカンド地域に存在した国のワルフマン王が各国からの12人の使臣と会うシーンが描かれている。ここに、身なりと立ち居振る舞いが異なる2人の使臣がいる。黄色い皮膚のこの2人の使臣は、2枚の羽を刺した折風帽をかぶり、膝まで覆う黄色の上着に黒い帯を結び、左の腰には柄の端が丸い長剣を差している。そして、だぶだぶのズボンにつま先のとがった靴を履いて立っている。

 彼らが高句麗の使臣であるというのはすでに学界での研究によって確認された。

 高句麗が存在した地域からサマルカンドまで行くには、延々と続く砂漠地帯と野原、険しい山脈を越えなければならなかった。高句麗人は、現代的な運輸手段がなかった当時の状況でこの遠いルートを開拓し、利用するにあたって従来の安定した「シルクロード」ではなく、高句麗が独自に開拓した「シルクロード」を利用した。(朝鮮通信)

[朝鮮新報 2007.12.14]