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「朝鮮名峰への旅」 シリーズ終えた岩橋崇至さんに聞く

「出会った人たちはみな、素朴で温かかった」

 04年4月から07年10月まで、「朝鮮名峰への旅」を3年間、28回にわたって本紙で連載した岩橋崇至さんは日本を代表する山岳カメラマンである。このシリーズでは、白頭山の四季折々の自然とそこに生息する希少動物や植物の生き生きとした姿が紹介された。朝鮮政府や国境守備隊の全面的な協力のもとに空撮を含めたあらゆる撮影が許されたことに感謝の言葉を口にする同氏に、あらためて白頭山への思いを聞いてみた。

 「撮影してから15年になる。学生時代からの憧れの山だったから、出版社から話があった時は本当にうれしかった。いま、南北関係がダイナミックに変化を遂げ、来年5月からソウル−白頭山の直行便が運航を始めると聞いた。文字通り白頭山が、全民族の聖山として蘇ると考えるととてもうれしい」

凍てつく天池

 いま、岩橋さんの脳裏をよぎるのは、白頭山で過ごした270日間の数々の思い出である。

 「初めて白頭山に行ったのは、91年5月の半ば。冬枯れの荒涼とした景色が広がっているだけで、撮るものが何もないというのが、最初に受けた正直な印象だった。それが山頂に立った途端、天池(山頂のカルデラ湖)越しに大陸の果てしない姿が広がり、シベリアからヨーロッパまで歩いて行けるのだという、日本にはない雄大なスケールと迫力に圧倒された。これはすごい、これが大陸の山だと、心が躍るようだった」

白頭山 冬−鯉明水

 「夏の白頭山を彩るウスバキチョウの優雅な姿も忘れがたい。白い羽に薄い黄色の斑点を持つ。日本では天然記念物に指定されており、絶滅が危惧されているが、ここでは群生を見た。白頭山にたくさん咲いているヒナゲシの花に卵を産むようだが、当時はあまり関心がなかったので、撮りそこねたものもある。多様な生息動物を見ていながら、山にだけ関心が向いて、見たものが心に映っていなかった。今度撮るときは、白頭山の奥深いところをぜひ、撮ってみたい」

 年齢を重ねるうちに、山そのものより、そこに生息する生きとし生きる物に深い関心を寄せるようになったと話す岩橋さん。白頭山の厳しい自然条件のもとで、風雪に耐えた高山植物の神秘的な美しさに出会ったからだという。

白頭山 冬

山頂からの夜明け

 「日本では朝鮮戦争後、朝鮮には禿山が多く、緑が少ないというイメージが広がっているが、決してそんなことはなかった。とくに北にいけば行くほど、手つかずの自然が残っているのに驚かされた。そこを自由に撮らせていただいたことは幸せなことだった」

 ヒマラヤの6500メートルほどの山に登った時と同じ装備で白頭山に登ったが、その強風と寒さは凄まじくて、ヒマラヤの方が楽だったと述懐する。とりわけ忘れられなかったのは、国境地帯を守る守備隊に親切にしてもらったことだという。枕峰の山小屋から山頂までの約20キロメートルの冬の山道を、機材などが入ったダンボール20個をかついで山にあげてくれたのは若い隊員たちだった。

 「平壌から恵山までの500キロの列車の旅も忘れがたい。日本より広軌なレールのため車輌も余裕があって、そこで温かい食事を作ってくれた食堂車の人、長い撮影の待機中、嫌な顔ひとつせず待ってくれていた車の運転手さん。渓谷でイワナ釣りなどをして、バーベキューの用意までしてくれた。あらゆる人たちが惜しみなく協力してくれたことを思い出すと心が熱くなってくる」

 今、日本のメディアの朝鮮の話題はもっぱらネガティブなものばかりだと岩橋さんは顔を曇らす。

 「米国のグランドキャニオンに取材に行ったとき、老人が近寄ってきて『おまえはジャップか』と怒鳴られたこともある。戦争中のことをいまだに彼らは忘れていないのだ。朝鮮でもそんな体験をするかもしれないと覚悟をしていたが、出会った人たちはみんな素朴で、温かかった。とくに女性たちは、私たちの社会がとうに失った『恥じらい』を知っていて感動したことを覚えている。偏見で相手を見るばかりでは、こちらの目もゆがんでくるだけだ。朝鮮半島では大きな地殻変動が起きており、日朝関係も当然変わっていかなければと思う。古代からさまざまな文化的な恩恵を受けてきた朝鮮との交流が自然にできるように願っている」(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.12.14]