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〈北海道朝高ウエイトリフティング部物語@〉 幻の「インターハイ」・金太壌の思い

たった一人の大会、「HATTA CUP(八田杯) 「2、3番は意味なし、やるなら頂点」

 北海道朝鮮初中高級学校ウエイトリフティング部。日本各地の朝高で唯一同校だけに存在する部で、1994年に朝高生のインターハイへの出場が認められてから朝高勢としては初の金メダルを獲得した。正式な部となったのは97年だが、それ以前からウエイトリフティングに専念した選手がいた。朝高が全国大会に出場できなかった時代に「幻のインターハイ選手」もいた。コンスタントに全国レベルの選手を輩出するようになってから、「重量挙げ=北海道朝高」のイメージが確立されたが、その道のりは平坦ではなかった。朝高ではサッカー、ラグビー、ボクシングなどが脚光を浴びる中、黙々とベンチプレスと格闘する選手たち。インターハイ王者輩出をはじめ今日に至るまでにはさまざまな物語があった。同部の軌跡を9回にわたって紹介する。(金明c記者)

金太壌コーチ

 「ガシャン、ガシャン。ドン、ドン…」。鉄の摩擦音とベンチプレスを床に落とす音が部屋全体に響き渡る。ウエイトリフティング部の部室は、校舎内の少し離れた場所にある。

 初めて訪れた部室は想像したよりも広かった。十分な練習器具と室内設備。ここからインターハイ王者が生まれたのも納得だなと思いつつ室内を眺め回していると、「立派だなと思っているんでしょう。ところが、ここはもともと空手部のものでウエイトリフティング部には練習場はなかった」と同部コーチの金太壌さん(31)が説明する。

 辺りを見渡すと99年、岩手インターハイで朴徳貴選手(当時高2)が朝高勢に初の金メダルをもたらした華やかな新聞記事の掲示が目に飛び込んできた。もう一つ、部室の隅に、朝高が全国大会に出られない時代の数々の新聞記事が青い板に張られてあった。

 「『全国』への道なお見えず」「『たった一人の大会』実現」と大きな見出しが躍る92年11月の北海道新聞の記事に目が留まった。

 「これ、誰ですか?」。「私です」と金コーチ。朝高時代の金コーチが練習に精を出す姿と、試合に出場したたくさんの記事と写真。当時、全国レベルの実力がありながら、公式大会に出場できない苦悩が書き綴られていた。

インターハイに出場できなかった高級部時代、金コーチを紹介した北海道新聞

 金コーチは、それらを眺めながら当時を感慨深く振り返った。そう、北海道朝高のウエイトリフティング部の歴史は金コーチから始まった。

 同校にウエイトリフティング部がなかった1990年代、金さんは物足りなさを感じていたサッカー部をやめ、高1の3学期から一人でウエイトリフティングの練習を始めた。

 理由は「体を鍛えたい」との単純明快なものだった。「すぐに北海高校のレスリング部(現在は廃部)を訪ね、一緒に練習に参加させてもらった。力には結構自信があったのに、バンバン投げ飛ばされて悔しくて。勝つには『タイガーマスク』みたいなパワーをつけないとだめだと思った。それで知り合いの紹介で始めたのがウエイトリフティングだった」。

 毎日授業が終わると、体育館に向かった。3時間みっちり汗を流した。単純な動機から始めたウエイトリフティングだったが、記録が伸びていくといつしかのめり込んでいった。

 天性のものがあったのか、キャリア5カ月でジャーク95キロをあげて周囲を驚かせた。初試合の北海道選手権で4位、全道秋季大会の75キロ級で優勝するなど、道内高校生のトップクラスの成績を誇った。それから迎えたのが92年11月、高体連主催の全国高校選抜の道予選会だった。

選手たちを熱心に指導する金太壌さん(右)

 各種学校扱いの朝鮮学校は当時、高体連主催の大会には参加できなかった。そのため、金さんも出場を拒まれた。

 「同じ高校生なのになんで?」。疑問が頭をもたげた。「各種学校や一条校っていう言葉をこの時、初めて知った。そんなことがあるなんてそれまで知らなかった」。

 順位に関係しないオープン参加も無理。そこで道協会側は、予選会終了後に金さん一人だけの大会を開催することを決めた。協会側の配慮でもあったが、過去に前例のない前代未聞の出来事だった。

 大会名は「HATTA CUP(八田杯)」。予選会の看板をおろして、たった一人だけの大会が開催された。試合に出場した日本の高校の選手も監督もみんなが見守った。戦う相手は同じ高校生ではなく、記録だけだった。スナッチ100キロ、ジャーク125キロのトータル225キロをマーク。大会に出ていれば75キロ級で優勝していたが、記録は公認されず、全国大会にも出られない。すべて「幻」で終わった。

 このことがきっかけになり、93年8月から道協会は地方レベルの大会参加を認めた。目標ができた金さんのモチベーションは一気に高まった。大会に出場しては自己新を連発した。全国高体連は同年5月、朝鮮高級学校の全国大会参加を翌年から正式に認めると発表していた。

 高3でのインターハイ出場は叶わなかったが、10月の道秋季大会に賭けた。3年間の集大成。スナッチ、ジャーク合わせて247.5キロの自己新をマーク。3カ月前のインターハイ2位の記録を上回った。われ知らず出た小さなガッツポーズがまぶしく映った。

 朝高卒業後、重量挙げの名門、中央大学へ進学した。98年のアジア大会には朝鮮代表としても出場した。そしてこの頃、朝高初のインターハイ王者となった後輩、朴徳貴選手と出会った。現役時代に叶わなかった夢を彼に託した。

 金コーチは、早稲田大学院を卒業して札幌に戻り親の仕事を手伝った。部の指導も続け、去年、兵庫国体には北海道代表のウエイトリフティング部コーチとして参加した。

 「高級部時代は、悔しい思いがたくさんあったけど、反骨精神のおかげで後輩たちに熱心な指導を続けることができる。あの時から後輩を必ずインターハイ王者に育てると心に誓った。2、3位じゃ意味がない。やるなら頂点。朝鮮学校が一番にならないとだめだと強く思った」

 寝ても覚めてもウエイトリフティング。金コーチの情熱とスタンスがウエイトリフティング部の礎を築き上げた。

[朝鮮新報 2007.1.15]