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〈北海道朝高ウエイトリフティング部物語B〉 創部へ〜金尋の情熱

インターハイ王者育てあげ、涙… 大切なのは目標達成への努力

金尋監督

 北海道朝高のウエイトリフティング部を語るうえで欠かせない人物がいる。同部監督の金尋さん(52)。在日本朝鮮人ウエイトリフティング協会会長で同部コーチの金太壌さんのアボジだ。

 専任の監督ではないが人並ならぬ情熱を注ぎ、インターハイチャンピオンの朴徳貴選手を育て上げた。がっちりとした体格が言葉の一つひとつにずっしりとした重みを感じさせる。

 「当時、うちの社員にウエイトリフティングの選手がいてね。それで関心を持つようになった」

 仕事をも犠牲にして、生徒への指導に明け暮れる毎日。「子どもがしっかり伸びて成長していく過程を見ていると楽しい。がんばって結果を出してくれると、また指導に熱が入る」。

 当時、金さん親子の姿を見てウエイトリフティングを始めた生徒がいた。初めて北海道朝高からインターハイ(96年)の舞台に立った李康成選手。高3の時に出場して結果は10位だったが、新たな歴史を刻んだ選手だった。

広い部室には金さんが寄付したたくさんのベンチプレスと練習道具が置かれている

 翌年の97年、正式に創部。部員は中級部3年の朴徳貴選手一人だった。体は小さくて細く、大丈夫かなと思ったが徹底してマンツーマンの指導を行った。中、高級部の6年間、練習は厳しかった。日本の高校のウエイトリフティング部が合同練習をしたいと申し入れてきたが、厳しさについて来れず、数日後、一人も来なくなってしまったというエピソードもあるほどだ。

 「普通の選手の3倍は練習をさせた。血も涙も見てきたのが徳貴。練習のあと、倒れて動けなくなることもあった。それでも本当によくついてきてがんばった。だから頂点に立てた。ウエイトリフティングは、練習をたくさんやった分だけ結果がついてくるし、勝てるスポーツだ」

 朴徳貴選手が99年インターハイで朝高勢初の金メダルを取ったあと、空手部が使っていた部室の半分が使用できるようになった。

部員たちと共に(2005年7月撮影)

 ベンチプレスの器具類や数々の練習道具を寄付し強化につとめた。空手部がなくなったあと、全部室を確保することになったが、一つ問題があった。ベンチプレスを床に落とすには改修工事が必要だったのだ。そのため、床下1メートルにコンクリートを埋め込む工事を行った。

 「これだけの設備を備えた部室は日本の高校にもあまりない」と金さん。総工費は数百万円もかかった。学校、学父母、部の関係者らが「全国に名を広げるため」と惜しみない協力をしてくれた。

 「金尋さんの功績がやっぱり大きい」と語るのは、崔寅泰・茨城朝鮮初中高級学校校長(55、前北海道朝鮮初中高級学校校長)だ。

 「会社社長でありながら、毎日ハッキョに来ては指導し、豊平分会長も務めて多忙な日々を送っていた。そんな人が情熱を持って部を強化してくれた。その恩は選手たちが一番感じていたにちがいない」

 朴選手がインターハイ王者になった瞬間、金さんは「涙が止まらなかった」。堂々と拳を突き上げる姿が誇らしかった。北海道朝高の名を全国に轟かせたことに、熱いものがこみ上げてきた。

 「夢、目標に向かって一生懸命やれば必ず達成できる。ハッキョ、学父母、指導者が一体になったからウエイトリフティング部が強くなった」

 そして続けた。

 「指導者は子どもたちに夢を与え続けないとだめだ。将来どういう人間になりたいのか、ウエイトリフティングの経験を通じて得たものを社会に生かしていけるよう育てるのが自分の務めだ」(金明c記者=つづく)

[朝鮮新報 2007.1.24]