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〈北海道朝高ウエイトリフティング部物語C〉 ウエイトリフティングに「目」〜強さの背景

「同じ民族」 南出身コーチの理論 「練習で泣いて、試合で笑え」

慣れ親しんだ部に顔を出した姜さん(左)。右は現在高3の李在Q選手(当時高1)=2004年3月撮影

 なぜ北海道初中高が「ウエイトリフティング」に着目したのか、疑問に思った。当時、学校に特別体格のいい選手がいたわけではない。

 ウエイトリフティングそのものもメジャーな競技ではない。そのうえ、まったくゼロからのスタートだった。それでもウエイトリフティングにこだわった。

 その理由を、崔寅泰・茨城朝鮮初中高級学校校長(55、前北海道朝鮮初中高級学校校長)が教えてくれた。崔校長は、金尋監督と同じトンネで育った幼なじみで、ウエイトリフティング部に対する一番の理解者だった。「規模が小さい北海道初中高がスポーツで日本全国に名を広めるためには個人競技しかない、そこに賭けようと話し合った」。

 また、金尋監督はこう語る。「ウエイトリフティングはマイナーなスポーツで競技人口も少ない。だから常に上を狙えるチャンスがある。中学から始める生徒も少ないし、高校からでもスタートラインが一緒だから十分に頂点を目指せると考えた」。

 同部発展の大きな原動力になったのは、南朝鮮で国家代表コーチを務めた姜信鎬さんだった。金監督の知り合いである彼をコーチとして招いた。姜さんは五輪王者を輩出した実績の持ち主。道ウエイトリフティング協会幹部と交流があり、周囲の反対を押し切って98年から2年間、同校コーチを務めた。

南に戻る姜さん(前列左から4番目)を空港で見送る部員たち

 当時は、朝鮮学校で南朝鮮のコーチが専任として公に指導するのは考えられない時代。しかし、崔校長は姜コーチを受け入れた。

 世界トップレベルの指導者が専任コーチとして協力を惜しまないと言ってくれている、「スポーツは政治の壁を乗り越えていける」と崔校長をはじめ学校側は信じたのだった。

 姜さんは、「同じ民族として子どもたちを日本の頂点に立たせたい」との一心だった。しかし、「周囲に自分のことは話してはいけない」と部員たちには言い渡していたという。

 「自分のことを話していい」と選手たちに許可を出したのは、2000年の6.15北南共同宣言発表後のことだ。

 姜さんは理論重視。選手たちは、太ももや腰、腕のベストの角度を何度も反復して叩き込まれた。部はプロ集団へと変ぼうした。練習方法から理論、そして勝負にかける意識…。口ぐせは「練習で泣いて、試合で笑え」だ。崔校長は「この時から部が大きく躍進することを確信していった」。

 94年、朝高生にインターハイへの参加が認められた当時、金メダルに一番近かったのはボクシングだった。しかし、優勢であっても同じ実力ならば判定で泣かされることが多く、頂点への道は困難を極めた。

 数字で競い合うウエイトリフティングは、判定で試合が覆るボクシングとは違う。だから北海道朝高には、一つひとつ徹底して練習していけば全国レベル、頂点に立てるとの確信があった。部員たちも全国制覇が夢ではなく、現実のものとして近づいていることを身を持って感じ取っていた。

 崔校長は「北海道の風土や環境、大らかな気持ちがそうさせたんじゃないか。民族と同胞社会を守っていこうっていう熱意がなかったら成しえなかった。インターハイ王者の朴徳貴はウリ民族教育のチャラン(自慢)だ」。

 金監督の「情熱」、姜コーチの「理論指導」、そして崔校長の「先見の明」−これらが一つになり、97年に正式に部を発足、活動が本格化していった。(金明c記者=つづく)

[朝鮮新報 2007.1.31]