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「古(いにしえ)からの伝言」

 昨年、「ダヴィンチコード」という映画が話題になった時、なぜか電気コードが頭をよぎった己の英語力の弱さに思わず苦笑した(コードとは伝言、暗号、メッセージだとか)。

 ハングルを教えながら日本語の中に朝鮮語を見出すことが多くなるにつれ、祖先の英知を強く実感するばかりだ。そして、それらが過去からのメッセージとなり、私の心をとらえて誘っていく。

 私たちを取り巻く日本語は、ほとんどウリマルに通じる。「だるまさんがころんだ」は、걸어온다=ころおんだ、お腹がペコペコは배고파=ペゴパ、涙がうるうるは울다=うるっ、2人っきりは끼리=キリという風に、朝鮮語と意味も響きも似ている。背中におぶさるも업어=おぼ、ではないかと、1人推測に浸ることもしばしばである。

 「もう一つの万葉集」の著者、李寧熙氏は古代朝鮮語が日本語の中に生きていると述べている。そして、「古事記」「日本書紀」「万葉集」「風土記」などの原文を古語辞典片手に解いていくと、ハングルの世界が広がってくるというのである。

 そう言えば、「古事記」を筆録した太安万侶のまろは「머리(頭)」「마루(峰)」、誦習した稗田阿礼のあれいは「아뢰(申しあげる)이(人)」という朝鮮語である。

 驚くことに、ひ・ふ・み…の日本語の教え方も高句麗の古代数詞からきたとのこと。

 古の言葉が今、コードとなって私の歩みを定めてくれる。今日も日本語の中に生きるウリマルを、私は探し続けている。(陳美子、京都文芸同文学部長)

[朝鮮新報 2007.2.24]