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〈解放5年、同胞演劇事情−下〉 同胞の団結訴えて

演劇活動支えた情熱

演劇運動を支えた活動

 民青は、中央本部はもちろん地方本部も演劇に力を注ぐように活動した。

 民青東京は第3回文化部長代表委員会会議(8月5日付)を開き、8.15記念行事の前夜祭は各支部別に行う、夏季文化活動については演劇班の結成を急ぎ、演劇活動を積極的に推進させる、支部定期総会には必ず第2部を設け合唱や寸劇などを上演するとした(民青東京時報1948年8月10日付)。

 機関紙の朝聯中央時報は、民青東京本部の演劇班は「黄昏」の公演や寸劇をもって同胞青年の啓蒙に努めている事実などとともに3.1学院、京都学生同盟演劇部も活動していると報じた(48年12月1日付)。

民青兵庫時報(48年6月1日付)

 演劇活動を行うには大変な努力が必要であることはいうまでもない。当時はまず、脚本が入手できず、あっても解放後の同胞の感情、心理に合うものが少なかった。配役ははじめて演劇をする人たちであり、大小の道具、照明、舞台美術も難問であった。例えば茨城における民青文化工作隊(文工隊)は男子4人、女子12人で18の支部巡回プランを決めて練習を始めた(48年12月9〜26日付)。

 練習当初は全員がずぶの素人、受講者が集まらない、欠講が続くなどがしたが、基礎訓練、肉体訓練としてのリトマック、ダルクローズ、発声訓練、パントマイムなどを重ねたという。張飛などが講師であった。そして練習終了後、年末から新年にかけて文工隊は学校や事務所で、あるときはトラックの荷台を舞台に寒さをこらえながら県内各地で熱心な活動を展開した。

 東京文工隊に加わったある青年によると、隊員のほとんどが素人であり困難が予想されたが、ほどなくそれらは解決をみたという。とくに4、5人は半ば文盲であったが演劇に出演する過程で完全に文盲を退治した(民青時報49年4月14日付など)。

 当時の資料などによると主に同胞青年に演劇を教え導いたのは呉禎民、張飛、申英、朴元俊、許南麒、朴義遠、鄭泰裕などであったという。

 また朝聯は、演劇の指導者養成のために朝聯高等学院(東京・狛江)12期を芸術学院として民青文工隊指導者養成を目標にした。期間は2カ月間、履修内容は、@芸術各分野の理論確立A主要な科目は演劇B民族舞踊技術を主にする舞踊、そして演劇実習、特別試演および研究発表会を開くとした。全国各地から48人が受講した。

朝聯解散後

 朝聯強制解散後、49年12月8日、李珍珪、許南麒の呼びかけで同胞文化人たちが東京・池袋の商工会事務所に集まった。そこには李殷直、尹鳳求、林光K、朴元俊、金達壽、鄭白雲、張飛、安渉をはじめ、鄭泰裕、徐ジョンジャなど7、8人の演劇人もいた。

 その場で李珍珪は、情勢が厳しくなったが座って待っていてはだめだ、共和国の公民らしく生き、同胞の権利を守るために同胞たちが団結するように啓蒙する必要がある、朝鮮語の演劇団をつくり日本各地を巡回することが大事であると述べたそうだ。そして協議した結果、みなが賛成、劇団名を劇団「モランボン劇場」とし、事務所と練習場は許南麒が校長をしていた埼玉県の川口朝聯学校におくことなどを決めた。そして50年1月5日に劇団「モランボン劇場」を発足させた。最初の公演は解放新聞社主催の「愛読者慰安会」(2月20日、神田共立講堂)第2部での演劇「茶花咲く智異山」(全1幕)であった。

 その後の在日朝鮮人演劇運動は、劇団「モランボン劇場」、在日朝鮮中央藝術団演劇部公演(62年3月初演)、65年1月に発足した在日朝鮮演劇団(65年1月創立、5月初演)と展開を見せる。こうみると解放5年は新たな演劇運動を模索し準備した期間といえるのではないか。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2008.2.1]