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〈解放5年、同胞スポーツ事情−上〉 体育団体結成の動き

心身の練磨 真理を追究

 一般に同胞のスポーツ事情を記すなら、組織のスポーツ政策、方針、人材育成、選手・コーチの養成、体育行事、本国、日本を含む諸外国との国際交流など包括的に考察しなければならない。現在の在日本朝鮮人体育連合会(体連)の結成が1954年7月28日、解放後10年近いこともあって解放5年間の在日同胞の体育スポーツ状況を整理するのは難しいができる範囲でまとめてみたい。

朝聯、民青の方針

46年5月15日付大衆新聞

 当時の同胞団体はどのような方針を立てていたのか。朝聯の文献などからは総合的な体育方針を探すことはできなかったが、4全大会後の48年度活動方針では「全国的な連合運動競技大会を毎年定期的に開催すること」、地方予選をやった後に中央で決勝をしてもよいし、地方県単位で開催してもよしとしている。朝聯の傘下団体であった民青は、例えば第2回全国大会議案「文化活動に関して」の中で、「心身の練磨と団体的訓練」という項目で@民青体操を制定して全盟員に普及させ、青年学院に体育科目を入れるA蹴球、野球、卓球などの球技、シルムなどの競技、運動会などの開催などをうたっている(民青時報47年9月26日付)。

 49年7月の民青の「当面の闘争目標」の中では「身体を健康にする闘争」として、幹部自身はもちろん全機関をあげて保健運動を展開する、季節を利用して民青体操の普及、登山、野遊会、野球、運動会などを組織する、全機関をあげて悪質な病気を調査するなどとなっている(当時は活動を闘争と表現することもあった)。

力強い歩み

朝聯青年陸上競技大会(大阪、写真集「解放」46年9月1日発行)

 戦後の混乱の中でも同胞たちは各地で体育団体を発足させようと努力した。正確にはわからないが、同胞体育団体の組織では大阪が先頭を切ったと思う。

 大阪府体協が発行した「力強く歩んだ50年 1945〜1995」によると、在日本朝鮮人体育協会(体協)は45年12月21日結成されている。手元にある記録としては最も早い体育団体の結成である。

 46年5月4日の体協の臨時大会の報道記事があるので、当時の活動を見るうえで参考になると思うので引用する。この臨時大会は協会道場で開催され新綱領を制定して人事を改選している。

 その綱領では「1、われわれは固く団結して進歩的民主主義国家建設の強力な推進力になることを期する、1、われわれはスポーツを発展させ心身を練磨し、真理を追究し、人格の向上を期する、1、われわれは日帝残滓とあらゆる反動勢力の徹底掃蕩を期する」となっている。時代性もあるが、解放直後の状況からするとすばらしい綱領といえるのではないか(大衆新聞46年5月15日大衆新聞社発行)。

 大阪体協の臨時大会、第2回定期大会では金民化が会長になっている。金民化は朝聯結成当時の大阪本部委員長、中総の副委員長という要職に就いたひとである。大阪体協の名称は、在日本朝鮮人体育協会となっていて、一見すると全国組織のようにもとれるがあくまで地方の体育団体であろう。

 全国的な体協をつくるために有志たちは幾度かの会合を開いている。当時の新聞によれば有志たちは「既存の体育団体」の「偏向を除外し体育本来の真正な道に導くために」以前から対策を講じようと考えていたそうだ(解放新聞48年11月1日付)。彼らは48年11月1日に朝聯東京本部講堂で発起人会を持ち「在日本朝鮮人体育協会」(仮称)の組織を討議し、尹炳玉外27人の発起人を決め、11日にもう一度発起人会を開いて27日に結成大会を開く予定とした。これも全国的かどうかはわからない。ところが結成大会は開催されなかった。ちなみに後に結成された在日本朝鮮人体育連合会の会長は尹炳玉である。

 神奈川でも神奈川県朝鮮体育協会を結成することになり、協会の中に各部を置いて専門スポーツを向上させようと呼びかけている(新聞朝聯神奈川6月11日付)。

 各地で全国的な団体をつくる動きがあったのに、体協の全国組織の結成は54年である。なぜ遅れたのかは定かでない。(呉圭祥・在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2008.2.8]