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〈寄稿〉 「遺骨奉還に想う」

朝鮮人遺骨問題に誠意ある対応を

 ひとつの遺骨「還送」が終り、ひとつの遺骨返還が行われようとしている。「還送」は将来に禍根を残し、返還はあるべき遺骨奉還の第一歩である(還送−送り返すこと、返還−もとの所へかえすこと。もどすこと、奉還−お返しすること。「広辞苑」)。

遺骨は「モノ」ではない

1、「還送」

祐天寺に安置されている北側出身者の名簿。遺骨はなく、靖国神社に合祀されていることが記されている

 1月22日、祐天寺(東京都目黒区)祐光殿で、日本政府主催による「韓国出身戦没者還送遺骨追悼式」なるものが行われた。正しく表現すれば「日本が朝鮮半島から強制連行し、死なせた朝鮮人遺骨返還・追悼会」ということになる。

 「還送式」では外務・厚生労働副大臣たちが追悼の辞を読み上げた。最高権力者の首相や外務・厚労大臣の追悼の辞を代読したのではない。一顧にも値しないことは言うまでもない。遺族と遺骨、民族の「恨」はとけなかった。とけていない。

−祐天寺

 祐天寺には、極東国際軍事裁判後に処刑されたB、C級戦犯と神風特攻隊員、タラワ・セレベス・ブラウン島等で亡くなった旧日本陸・海軍軍人・軍属と浮島丸爆沈事件犠牲者たち(北部出身者を含め280人)の遺骨(遺品)が安置されている。今回101体が「還送」されたので残るは1034体、このうち430体(41.6%)は朝鮮北部出身者である。

−遺骨は無数

 祐天寺のほか金乗院(埼玉県所沢市)にも、厚生労働省が委託した「朝鮮半島出身者」の遺骨131体が保管されている。このほか九州、北海道を含む全国各地と周辺海底には、今なお打ち捨てられ朽ち果てた無数の遺骨が眠る。

−タイミング

厚生労働省が埼玉・金乗院に委託した朝鮮人の遺骨。131人分の遺骨がわずか16個の「箱」に混ぜられている

 日本政府は1952年サンフランシスコ条約が発効するや、衆議院決議を経て遺骨収拾に乗り出した。硫黄島から始めたが、朝鮮人の遺骨には目もくれなかった。

 2004年12月、盧・小泉会談が指宿(鹿児島県)で行われた。この時、盧大統領が小泉首相(当時)に、徴用者の遺骨調査を申し入れた。政府は05年6月20日付で「朝鮮半島出身の旧民間徴用者の遺骨について」の情報提供依頼を、都道府県に下ろした。しかし添付した「別紙1」、612社の強制連行「事業所一覧表」には都道府県名と所在地だけを明記、事業所名を削除、「○○系」と業種だけを表記した。盧大統領の任期切れを迎え今回、徴用者ではなく調査前から持っていた旧軍関係者の遺骨返還で取り繕った。厄を払ったとしか思えない。

−旧日本軍関係者のみ

 「還送」されたのは祐天寺の101体だが、すべて旧日本陸・海軍軍人・軍属である。浮島丸事件犠牲者は見事に除かれている。政府が強制的に動員し企業に割り当てた徴用者であれば、日本政府はもとより関連企業の責任・謝罪・補償問題が絡む。浮島丸事件の場合は菅原組や梅田組、北海道の場合は新日鉄、九州の場合は麻生一族…。

−ずさんな身元確認

 身元の確認は、「日本政府が所有する名簿」と写真によって南朝鮮側が行った。厚労省が昨年末、南朝鮮側に遺骨箱の中身の写真137枚を送ったのである。123人分は遺骨が入っていたが残りは遺髪、爪、石、貝殻等が写っていた(ちなみに朝鮮には、遺骨1体は疎かこの名簿すら渡していない)。

−遺骨は誰?

 遺族たちは13の木箱から「創氏名」が記された白木の箱を受けとって戸惑い、骨壷を開けて驚愕しただろう。いくつかの骨片らしきものとボタンや石ころ、紙屑などが入り雑っているからである。そもそも戦場で亡くなり、数十年間野ざらしのまま散在していた遺骨をどうして判別・特定できるのか? 遺骨は手当り次第拾ってきて、日本国内で死者数にあわせて骨箱に分け入れたのである(分骨)。北部出身者や現地人、まして日本人の遺骨が入っていないとは断言できない。

 祐天寺には遺骨が入っていない空の骨箱が数多くある。聞くところによれば今回、高齢の遺族たちが「黄泉のくにに逝く前に一度だけでも祭祀をしてやりたい」と引き取ったらしい。同情こそすれ、非難すべきでない。非難されるべきは半世紀以上の永きにわたって、遺族探しをせず遺骨を委託・放置してきた日本政府である。

−遺骨との面会

 東京朝鮮人強制連行真相調査団(以下東京調査団)は2004年12月11日、北南朝鮮から遺族を招き祐天寺で初めて合同追悼会を催した(北の遺族は入国を拒否された)。当初、厚労省は「前例がない」と拒んだが、「貴方は管轄しているだけ。遺骨は遺族のもの」との東京調査団の反論に従い3人の遺骨箱を出した。浮島丸事件の遺族である全承烈氏(全北・全州)がアボジの骨箱を開けようとした。厚労省役人が「遺骨に失礼だ」と制止するや、全氏は「3歳の私から父を奪って行き、60年間遺骨にさわらせなかった日本政府に義は無い」と一喝、かまわず開けた。遺骨を凝視、さわってみて静かに「これはアボジの骨でない」と呟いた。

 浮島丸事件犠牲者の遺骨収拾は、事件当時と1950年3月の船尾及び1952年1月の船首部分引揚時の3回である。毎回、全部一緒に茶毘に附された後、骨箱に分けられた。合葬・分骨されたため、骨箱にいくら名前が記されていても到底その人のものだとはいえない。事件から63年が経った今も、舞鶴湾下佐波賀沖の海底に多くの遺骨が沈んだままである。

−北側出身の犠牲者

 祐天寺合同追悼会の2日後、入国できなかった北の二人の遺族の代理で厚労省を訪ね、書類を受けとった。咸鏡北道清津から強制連行された金正表氏は、旧日本陸軍軍属としてセレベス島へ連れて行かれ、1944年12月31日に死亡。平安北道密辺郡から旧日本海軍軍属として連行された金龍均氏は、1944年9月19日にタラワ島で亡くなっていた。「遺骨」欄は「無」と記されていた。祐天寺に二人の遺骨はなかったのである。一昨日確認した時は遺骨が入っていたので「あの遺骨は?」と問うと厚労省課長は事もなげに答えた。「後日、日本人の遺骨収拾に行った時、島から拾ってきた」。

−「戦死者」が生存

 祐天寺の朝鮮人遺骨名簿に「戦死」と記されていた金相鳳氏。実際は釜山で生存していた。昨年3月に来日した84歳の金氏は、集会で証言後、厚労省を訪ね自分の名前が遺骨名簿に載せられた経緯について説明を求めた。日本政府は門前払いした。

−DNA鑑定

 1967年以降、厚生省(当時)援護局がおこなった遺骨収拾関係の総予算は約600億円、収拾回数も300回を優に超えている。遺族の要求により1999年以降はDNA鑑定をしているが今回はしていない。

−靖国神社に合祀

 大方本人のものではないが、たとえ遺骨があり「還送」されたといえども、「魂」は靖国神社に囚われ祀られているケースもある。実際先の二人の内、旧日本海軍軍属としてタラワ島で亡くなった金(山)龍均氏の書類には、「靖国神社・(昭)34.7.31合祀手続済」の丸いハンコと、欄外に「(昭)34.10.17靖国神社合祀済」との書き込みがあった。政府は北部出身者の名簿を持ち、遺骨を保管しながらも半世紀以上奉還はもとより知らせもしなかったばかりか、靖国神社に勝手に合祀していた。これほど屈辱的なことはない。

 今回の「還送」を人道的だと言うのはおこがましいかぎりである。「これ以上謝罪も反省も求めない」ならば、日本政府は快哉を叫ぶだろう。

−厳しい取材規制

 今回来日した遺族の宿舎は、JR大森駅からタクシーで15分もかかるアーバンホテル大田市場であった。軟禁少なくとも隔離以外のなにものでもない。報道関係者の取材は冒頭の黙とうだけ許され、即刻退室を求められた。祐天寺で19年間「朝鮮人戦争犠牲者追悼会」を開催してきた目黒区の市民たちが「還送式」に出席させてほしいと要請したにもかかわらず、厚労省と外務省は断った。甚だしくは国会議員すら拒否、正常な「還送式」ではなかったと言わざるをえない。

−遺骨は「モノ」ではない

 「還送」という表現は、政府が遺骨を単なる「モノ」と認識していることを示している。遺骨は人そのものである。遺骨には短しといえども人生があった。家族がいた。貧しくとも楽しい団らんがあった。かけがえのない夢があった。政府は連行後、故人がどこをどう引き回され、いつどこでどのように亡くなったのか、また死亡後祐天寺に納められるまでの経緯を明らかにすべきである。

−30万ウォン

 日本の過去清算は、全体としての真相究明と個々人の究明がなされなくてはならない。一括「還送」で事は終らない。政府関係者が遺族一人一人を訪ね、上述の説明と謝罪、補償を成すべきである。今回日本政府は「還送」に伴う弔慰金として一体あたり20万ウォンを提示、韓国政府が40万ウォンとするや結局30万ウォンに落ち着いた。その一方、未払い金(供託金)はしらばっくれた。天を恐れぬ所業であり、国際的に孤立する由縁である。

−遺骨は知っている

 「還送」は将来に禍根を残した。遺骨は語らぬが、死に至らしめた者が誰なのかを知っている。「日本の過去清算を求める国際連帯協議会」平壌・ソウル会議で見たポスターにこう書かれていた。「I saw…you. I know…you」(私はあなたを見た。私はあなたを知っている)。

市民が主体となり

2、返還

 「強制連行、強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」は今月下旬、宝性寺(赤平市)の遺骨1体と光昭寺(室蘭市)の遺骨3体を、祖国の遺族のもとへ返還する。

 光昭寺に安置されている遺骨は慶南・河東郡出身の鄭英得さん(死亡時16歳)、李延基さん(死亡時15歳)、慶南・泗川郡出身の具然錫さん(死亡時17歳)の3人、宝性寺の遺骨は具さんと故郷が同じ趙龍文さん(死亡時39歳)である。

北海道フォーラムと室蘭・赤平市民の会は、遺族への香典・追悼法要等遺骨返還成功のための支援を呼びかけている。募金目標は200万円。

郵便振替口座

02720−9−92570 北海道フォーラム

※北海道新聞2月4日付「朝鮮人遺骨返還 市民の会が募金」の記事によると、「市民の会」は3日、ポスフール室蘭前で、遺族に手渡す弔慰金を募る街頭募金を行った。市民に遺骨返還を広く知ってもらいたいという願いも込め、会員7人が約1時間、買い物客らに協力を呼びかけた。

 光昭寺の3人は1945年7月15日、室蘭市に対する米軍艦の艦砲射撃の時、徴用されていた日本製鉄でほかの二人とともに犠牲になった(この二人の遺骨は解放後、遺族に還された)。

 2005年5月、3人の遺族が遺骨と対面したが、遺骨は持ち帰らなかった。「真相究明と責任の所在」がはっきりしていなかったからである。遺族は日本政府と後継企業である新日鉄の責任ある対応を待った。

 しかし加齢・高齢により、遺族が「真相究明と責任の所在の明確化」を断念、遺骨返還を望むことになった。この思いに応えるべく、北海道フォーラムと室蘭市民が主体となり返還されることになった。

 宝性寺の故趙龍文さんは、北炭赤間炭鉱坑内夫として働かされていた。過酷な労働の末、病に倒れ解放後の1946年11月20日死亡した。仲間が遺骨を川に流そうとした時、真宗大谷派宝性寺の黒川前坊守が「平和になるまで預かる」と申し出たのである。2005年2月、郷土史調査で宝性寺を訪れた赤平高校の顧問と生徒たちが、納骨堂で「安川龍文」と記された遺骨を発見した。2006年2月、甥(趙栄奎さん)が遺骨と対面、しかし日韓両政府の遺骨返還協議を待つとして遺骨を引き取らなかった。徴用者の遺骨返還に関する両政府間の合意見通しが立たないので遺族が早期返還を希望、北海道フォーラムと赤平市民が主体となり、遺族の意思に応えて返還されることになった。

 北海道フォーラムと「強制連行犠牲者の遺骨返還を実現する室蘭市民の会」「趙龍文さんの遺骨を返還する赤平市民の会」は、日本政府に4体の遺骨の返還を政府の責任で行うよう求めた。が今日に至るまで何の答えもないという。フォーラムと室蘭・赤平市民の会は、遺骨返還に際して政府に謝罪と弔慰金の支出及び返還に立ち合うことを求めている。

 24日、本願寺札幌別院(西本願寺)で奉還遺骨追悼法要と遺骨捧持団結団式、第6回フォーラムが行われ、遺骨は26日、千歳を発ち27日、ソウル奉恩寺(住持・明盡師)で遺族に引き渡される。

−結び

 日本政府は空々しい「還送式」を仰々しく演出した。韓国側が求めた徴用者の遺骨返還は、日本政府ではなく北海道フォーラムと室蘭・赤平市民の手によって行われる。日本は「負の遺産」をいつ清算するのか? 私たちは引き続き「未清算の歴史」と向き合って行く。遺骨の前では、北も南も在日も一つである。遺骨は日本の国家モラルと日本人のプライドを問うている。

(李一満、東京朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側事務局長)

[朝鮮新報 2008.2.13]