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〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-2-〉 権力防御装置の恣意的発動

はじめに 下

 大火最中の阿鼻叫喚はいうまでもないが、鎮火直後のただ一面の焼野原には、無数の死骸が山のように重なり、川という川には数えきれぬ死体が流れていた。そして、ようやくにして死は免れたものの、飢えと寒さにうち震える数十万の江戸市民が丸裸同然に投げ出されていたのである。そこへ何と今度は大寒波が襲い、大雪が降った。正月「廿日(中略)今朝にいたり風しづまりて、大雪ふり出しければ、一昨夜より火をさけて嚝野に露座せし細民等、凍死するもの又少からず」とあり、「廿七日(中略)けふよりまた大雪あり、いまだ家居なき細民凍死する者多し」とある。

 B幕府の危機対処法

虐殺された朝鮮人の遺体

 庶民がこのような言語に絶する苦難をなめている時、権力上層部では何が議されていたのであろう。

 四代将軍家綱は、天主閣が焼け、本丸にも火がついたので西の丸に移る。「酒井讃岐忠勝、御前に出て、両日の大災、天のなす所とは申せども、いかにもいぶしき事なきにあらず、いかなる非望の族、覬覦(非望を企てること)の密計なしとは申べからず。(中略)井伊掃部頭直孝は、をのをのの申す所のごとく、尋常の災ともおもはれず(中略)阿部豊後守忠秋(中略)万一非常の変にのぞみ、覬覦の挙動するものあらんには、一、二の大名、御家人に仰下され誅戮せられんに、何の難き事あらんや」とあって、この大火の原因を、不逞浪人、不満分子の放火という線に持っていっている。

 たしかに六年前には由井正雪一派の幕府転覆陰謀事件があり、その翌年には老中を狙った浪人が捕まったりしたこともあり、正雪の残党が風の日に火を放つ、などの噂もあったことなので、そのような社会の不安状態に無関心でいられないのは理解できなくもないが、純然たる火事と思われるものをいかに大火とはいえ、原因を他に求めようとするのは権力防御装置の恣意的な、または故意による発動と云えよう。幕府権力が直ちに執った対応は幾つかあるが、治安に関わるものとしてここでは三点あげたい。

 @は、将軍の安泰なるを、城々、各所、駅々に知らせることであった。「廿日(中略)書院番森川小左衛門之俊、小姓組川村善次郎重正は大坂までまかり、城々、各所、駅々にて、府内二日大火ありしといへど、上(将軍)にはいよいよ安らかにわたらせ給ふむねをつげしめ、四民の心を安ずべしと命ぜら」れと、ある。

 Aは、放火犯人を捕えるべく出動を命じたことである。「廿日(中略)先手頭等は属吏を引つれ、各所を見めぐり、火賊捜索すべしと命ぜらる」「巡夜の輩にも、いよいよ心いれ見めぐり、往還の妨なからんやうにはからふべしと仰付らる」とある。もっとも府内巡察の命をよいことに、夜廻りの役人や見張り番などが、にわかに権威づいて通行人を訊問したり、取り調べをしたので住民は大変に迷惑したというが、後年の悪名高い自警団はこの時すでに先駆的に現出していたのである。そのうえ、放火犯人を訴え出たものには賞金を出すとの高札を立てた。「褒金二十枚下し給はるべし」とある。後に賞金は三十枚にしている。何が何でも大火災は放火犯人の仕業だと思わせる気だった。

 Bは、罹災民に給食を施すことである。

 幕府は四人の大名に命じて施粥を行わせている。いわゆる救小屋である。「廿日(中略)府内、六所に糜粥を烹て、この月中、飢民にあたふ」。また「廿九日、飢民に粥施さるゝ事、来月二日まで行ふべし」とあって給食の日限を延ばしはしたが、罹災民の窮状はとてもそれくらいでは収拾のつかないことなので、施粥の期日を十二日まで隔日に行うと訂正した。「飢民、粥を受るに器物なく、焼瓦に捧げて之を喰ふ」(「徳川十五代史」)とあるが、それもなくて、直接手の平に受けて粥をすする者もあった。

 さてAの放火犯人と関連することだが、ここに奇異な記録がある。「廿四日(中略)神田の処士有賀藤五郎獄に下さる。こは、このほど火事のとき、徒、若党、奴僕あまたあつめ、其身、革羽織、立附を着した挙動いぶかしと訴ふるものあるによってなり」と言うものである。有賀という男のやり方はいかにもこれ見よがしである。何故に放火犯人がわざわざ人目に立つようなことをやるのだろうか。

 黒木喬氏は「明暦の大火」(講談社、一九七七年刊)で有賀について鋭い推理をされている。幕府は有賀を入牢させたが「放火犯人とは書いていない。ことによると有賀は放火犯ではなく、本妙寺の出火を放火に見せかけるために派手に走りまわった工作員であったのではあるまいか。(中略)有賀はほとぼりのさめたころ、手当て金をもらって穏便に釈放されたことであろう」。幕閣の意図は諸説あるが、有賀について言えば、明暦の大火は放火犯人の故であるという、幕閣のシナリオ通りに動いた人物である疑いは消えないように思う。(琴秉洞、朝・日近代関係史研究者)

[朝鮮新報 2008.4.4]