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バラックの仮校舎で入学式を迎えた朝大4期生 入学50周年記念同窓会に招待されて

「次は平壌の同窓生たちと共に」

朝大第4期入学50周年記念同窓会(4月22日、熱海で)

 思いがけない招待状だった。朝鮮大学校第4期卒業同窓会会長・李命芳氏からの丁重な招待状と、熱海まで往復の新幹線の切符を受け取った。朝大を定年退職してすでに10年以上になるが、まさに在日朝鮮人運動の激動時期の苦難に満ちた草創期の朝大に入学し、学んだ卒業生たちからこのような招待を受けるとは夢にも思っていなかった。招待されたのは白宗元、李時求、成圭永の諸先生と私だった。

 燎原の炎のように帰国運動が盛り上がりつつあった58年4月、民族幹部を育成する民族教育の最高学府として4年制の大学として改変され発足した前途洋洋たる朝大第4期の入学であったが、十条にある東京朝高の片隅にあるバラックの仮校舎での入学式だった。

 入学生数60人、帰国者15人、逝去者10人、消息不明5人を含め、卒業生27人が同窓生として名を連ねているとの報告があったが、経済的に裕福な人もいない4期生たちが、4人の恩師たちを招待する同窓会は、本当に大変なことだったと斟酌している。

朝鮮大学校創設の頃

 熱海での同窓会は、本当に和気あいあいとした楽しい雰囲気だった。いうまでもなく多才、多弁、多能で有名な4期生たちのことである。故南時雨学長の姿を髣髴とさせる朴礼緒氏の50年前と全然変わらない即興詩の披露、朝大卒業後、二十数回以上最多人事異動にもめげず、定年まで任務を全うした李東昌氏、朝大入学期から卒業後の茨城朝高との交流をめぐる朴正植氏の人情味あふれる思い出話、自分はたとえ体に障がいがあっても、ハングル文の校正ではトップだと自認できるという李命芳氏の朝鮮新報社での職業体験談など…。長広舌の連続に、決められた宴会の時間内で発言するよう繰り返し注意を受けたのだった。

 そして自身の消息紹介とあわせて帰国した同級生たちと消息不明の友たちの可能な消息と今後の追跡に対して積極的な意見が交換された。

 ところで、彼らが入学式を迎え、はじめの1年間学んだバラックの仮校舎は、歩くと床がきしみ、「これが朝大か…」と通り過ぎる朝高生にいわれたものだが、私はこの仮校舎の一角に、ガス、水道を引き化学実験室を設け、実験授業をはじめた。1年後、祖国からの教育援助費と奨学金の温かい配慮により小平市に創設された新校舎に移ることができたが、私はこのような環境で学んだ彼らの中から多くの有能な人材が育ったことを誇りに思っている。

朝大理学部第4期と共に(58年10月、十条仮校舎にて)

 同窓会での彼らの一言一句は、本当に苦難に満ちた朝大草創期の学窓生活の記念碑である。「無依無托」という言葉は、父母兄弟を祖国に帰国させながら、自身は日本で在日朝鮮人運動に献身すると誓った、日本に残った草創期の朝大生の「合言葉」だった。その後4期卒業生たちは半世紀にわたり、この厳しい試練と環境の中でも屈することなく総連の愛族愛国事業に貢献してきた。

 すでに齢古希に達しようとしているが、「次の同窓会は釜山で北行列車に乗り、平壌で、帰国した同級生を招待して開こう」との提案があり、その愛族愛国の気迫ととくに朝大に対する愛校心には感嘆を禁じえなかった。

 その彼らが私たち4人を恩師として招待し、かゆいところに手が届くような細心のもてなしをしてくれたことに心から感謝している。白宗元先生は「お陰でまた数年間も寿命がのびた気がする」といっていた。最近の日本の世相ではとくに高齢者に対して非情な仕打ちが多いといわれているが、このたびの同窓会に招待され、本当に心温まる想いを感じた。

 ちなみに、白宗元=旧制四高、李時求、成圭永=旧制三高、申在均=旧制二高の出身であるが、私は懐かしい旧制高校の同窓会に参加しているような錯覚を覚えた。(申在均、朝鮮大学校元副学長)

[朝鮮新報 2008.4.30]