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帰国した4.24闘士が息子に伝えた獄中手記

「たたかう同胞の中に、私の父がいます」 

 日本での獄中闘争を記録したノートを持って帰国した同胞がいる。祖国の大地を踏んだ時、彼は杖をつかなければならなかった。第92次帰国船に乗り込んだ時には腰の病気を患い、まともに歩けなかった。不当に投獄された末、足の病気を患っていたからだ。1948年4月24日、彼は「学校閉鎖」撤回を要求してたたかう兵庫同胞らの先頭に立っていた。

4年間の獄中闘争

民族教育のための闘争の先頭に立った。(写真は兵庫県で繰り広げられたデモ。中央の人物がキム・ヨンホ同胞)

 48年1月、日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に従い、朝鮮人学校の閉鎖と在校生たちの日本人学校への編入を各都道府県知事に通達した。

 日本各地で同胞による反対闘争が展開され、その規模は日ごとに広がっていった。4月24日、3万人余りの兵庫同胞は県庁前で人民大会を開き、代表たちを派遣し県知事と談判した。当時の在日本朝鮮人連盟(朝連)兵庫県本部の活動家であった金旲さんも代表の一人だった。

 「私の父は弁術の立つ人だと言われていました。代表らの正当な要求に当時の岸田という県知事は言葉につまり、『学校閉鎖』の撤回を含む同胞らの要求条件を受諾せざるを得なかったと聞いています」

 旲さんの息子の漢洙さん(63歳、平安北道東林郡在住)は、父のたたかう姿を直接見ていない。年があまりに幼かった。しかし、学校に通う年頃になり、成長する過程で近所の同胞たちから生々しい証言を何度も聞かされたという。

 「日本としては完全に体面をつぶされた訳です。だから、同日中に『学校閉鎖の撤回』という県知事の約束は覆され、兵庫地区には『非常事態宣言』が宣布されました。私の家族はその日から、父の姿を見ることができなくなりました」

 第2次世界大戦後、GHQが日本で唯一布告した「非常事態宣言」。警官隊によって朝連県本部が襲撃され、数千人の同胞が検挙された。旲さんは軍事裁判で「懲役15年、釈放後海外追放」の判決を言い渡された。

 「監獄では殴打と拷問が延々と続いたといいます。無理やり水を飲ます水責めによって、投獄された同胞らのほとんどが胃を痛めました。私の父は腰にも大きな傷を負い、人生の最後まで椎間板脱椎症で苦しみました。父は監獄から出所した後、監獄であったことについては特段、話をしなかったのですが、記録が残っています。監獄で日記のような文章をしたためており、収監者に対する人権じゅうりん行為を告発する内容が多く書かれていました」

家庭不和、そして肉体的苦痛

金旲同胞の息子金漢洙

 漢洙さんには母の手に引かれて、獄中の父親に会いにいった記憶がある。「何が起きたのか知る由もない幼い私は、自分の家と異なる監房の造りをいぶかしげに見つめていた」という。一方、親には子供たちに家庭状況を詳しく説明できない理由があった。

 「母は『家庭の枠』を越えられない人でした。監獄に捕らわれた夫だけが釈放されればよいという考えで行動していたので、『大義のために小を犠牲にする』との覚悟を決めた父と衝突するしかなかったのです」

 旲さんのような4.24闘士の「家庭不和」は当時、同胞社会の懸案問題でもあったという。同胞たちは子供たちが母親の「影響」を受けないように彼らを見守った。しかし、当事者たちにとってそれは必ずしも幸福な生活ではなかった。漢洙さんと彼の兄(東洙さん)は、同胞の家々を転々としながら暮らさざるをえなかった。

 「GHQの占領統治が終わり、日本の内外情勢が変化する中、父も4年ぶりに監獄から出所してきたが、母との関係は修復されず、結局は離婚しました。父が投獄されたことで、わが家は一度崩壊したのです」

 旲さんは、1952年から神戸朝鮮中高級学校校長として活動した。当時、生徒たちはみすぼらしい建物で勉強していた。教育現場に身を置いた4.24闘士は、神戸中高新校舎建設のために東奔西走した。そうした日々の中で再婚し、家族の生活も取り戻したが、彼の肉体は獄中生活での拷問によって負った腰の病気が悪化し、40代の若さですでに体をまともに動かせなくなっていた。

 1960年代に旲さんは上京し、総連の事業体に籍を置きながら入院治療を受けた。しかし全快の見込みはなく、祖国の高麗医学に一縷の望みを託した。1962年4月、第92次帰国者集団の団長として、杖をつきながら息子とともに帰国船に乗った。

民族教育に対する情熱

帰国後の金旲同胞

 旲さんは1975年にこの世を去った。帰国後は本人の意向に従って、地方都市で身体をケアしながら働いた。機械工場副支配人の職務について療養生活を続けた。

 旲さんが4年間の獄中闘争を記録したノートは16冊に達した。漢洙さんは、父親を追憶しながら遺品を広げ語った。

 「50年前、日本に住んでいた時にめくって見たことがあるが、その深奥な内容については全てを知ることはできませんでした。中学生の私は、民族教育の権利のために身を投じた父の精神世界を、十分に理解できる力はありませんでした。今、60歳をすぎた私の手中には、父が残した9冊目のノートしかありません。1頁目の日付は1950年6月26日です。そこには前日に勃発した戦争に対する分析、祖国人民とともに戦えない残念さ、収監者としての煩悶と悩みが記されています」

 息子には、大切にしてきた別の遺品もある。「東神戸朝鮮初級学校建設委員会感謝状」である。60年代、東京で暮らしていた旲さんは、自分と一緒にたたかった活動家や同胞らに帰国の決心を伝えるため、兵庫へ戻り数日間滞在した。活動家と同胞らはお金を集めて、帰国する彼に贈り物をしたが、本人は「恥ずかしい事この上ない。私は愛国事業のために、お金をだしたことが一度もなかった」と述べながら、その全額を学校建設委員会委員長に手渡した。数年後、帰国した同胞が「感謝状」と完工した学校の写真を持って彼を訪ねてきた。

 「民族教育に対する父の熱情には終わりがなかったのです。当時の朝鮮学校教員たちは、給料がもらえずいつも生活に苦しんでいましたし、父も例外ではありませんでしたが、校長としては思うところが多かったようです。数カ月ぶりに給料を渡す時、再婚した母が内職で一円、二円と集めた生活費から、いくらか補填したりもしていました。私は教員たちの給料の封筒にお金を入れながら、彼らの苦労について話していた父の姿を今でも思い起こします…」

清算されなかった歴史

金旲同胞の獄中記(左)、東神戸朝鮮初級学校建設委員会の感謝状

 漢洙さんは、父親の人生を辿る時に「歴史の縁」を感じざるをえないと言う。慶尚南道泗川郡で生まれた旲さんは、14歳の時に渡日し苦学した。しかし、彼の父親が日帝植民地統治に反対する、3.1人民蜂起に参加したことで投獄され、家族は生きる道を模索し離散を強いられた。

 「私の父のたたかいは、過去のものではありません。歳月は経ちましたが、朝鮮民族に対する日本の罪は清算されておらず、今日まで続いています。拉致問題や核問題を口実に繰り広げられている反共和国、反総連騒動を、私たちは無心で見ている訳ではありません。口実が何であれ、今の日本は朝鮮学校を閉鎖し、朝連を強制解散させた当時の状況と、いささかも異なることはありません」

 息子にとって、民族のために一生を捧げた父は誇りである。漢洙さんは最近、父を回想する機会がさらに増えたという。4.24教育闘争60周年という契機のためだけではない。彼は新聞やテレビで報道される総連と同胞がたたかうニュースに、「4.24精神の継承」を実感している。

 「私は、日本当局の弾圧に反対してたたかう同胞たちの中に、父の昔の面影を思い浮かべています。私たちには、日本と清算すべきことがあまりにも多くあります。朝鮮民族は代を継いででも必ず恨みの積もった歴史を総決算しなければなりません」(金志永記者)

[朝鮮新報 2008.6.4]