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「記憶は弱者にあり」

 流れてくるラジオ司会者の言葉に思わず顔がゆがんだ。次々と紹介される「英語になった日本語」を聞きながら、世界で通じる日本語−「Ianfu(慰安婦)」に考えが及んだからだ。日本がこの問題に対して誠意ない態度をとり続けているため、国連人権理事会はじめ各方面で「Ianfu」は国際語になった−事情を知らないのは日本だけだ。

 ある在日朝鮮人2世の喜劇人が言った。「記憶は弱者にあり」。そう、かつての「強者」には記憶がない。だからこんな問題が今でもたびたび起こるのだろう−植民地支配や「慰安婦」は「なかった」とする暴言だ。

 下関市教育長の暴言に対し、抗議活動が連日行われた。地元からのニュースの中には心揺さぶられるエピソードも多い。抗議に向かおうとした1世のハルモニが、「警察がいたら危ない」と、若者を押しのけて先頭に立ったという。「自分は今日死んでも惜しくないが、若者たちが傷ついたら大変だ」と。やはり「記憶は弱者にある」ようだ。

 かつての「強者」が、記憶を否定することによって、かつての「弱者」を苦しめ続けている。その記憶は次代へと語り継がれるべきものなのに。それは、知ること、想像することで共通の記憶になりえるというのに。いつまでも「強者」でありたいと思うがために「弱者」に苦痛を強いる。

 しかし「弱者」はもういない。その記憶を受け継ぐものがいるだけだ。「弱者」の記憶を否定することも、「強者」であろうとすることも許されない。(麗)

[朝鮮新報 2008.7.14]