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〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-6-〉 戒厳司令部が作成した「虐殺記録」

 最近、関東大震災時の朝鮮同胞虐殺問題と関連して、陸軍の明確な関与を裏付ける証拠文書が公表されて大きな関心を呼んでいる。すなわち、東京都公文書館所蔵の、当時の関東戒厳司令部がまとめた「震災後警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」の発掘である。この表は、戒厳軍隊の武器使用事件の20件のうち、12件が朝鮮人の虐殺を記録したもので、このガリ版刷りの表中で明らかにされているのは朝鮮同胞254人に対する虐殺が、日時、場所、部隊名および指揮官、兵器使用軍人らの固有名詞入りで、「概況」と称する虐殺経緯についてのわい曲はあるものの、かなりリアルに記録されていることである。



武装兵による朝鮮人迫害の光景

 この表の発掘で何が判明したのかということである。

 それは、軍隊が直接朝鮮人虐殺に手を下したことが戒厳司令部自らの調査で明らかになったことである(なお、この「表」の発見者である法政大学の松尾章一教授は、この表中の一部を引用して、「歴史評論」1993年9月号で、この表の存在を明らかにされていた。さらに松尾教授は、全3巻の「関東大震災政府陸海軍関係史料」を日本経済評論社から刊行された)。

 震災時の朝鮮同胞虐殺に陸軍が関与していたことを最初に明らかにしたのは、みすず書房の「関東大震災と朝鮮人」(姜徳相・琴秉洞編、1963年刊)所収司法省極秘文書「震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書」(後藤新平文書)である。この文書には、今回明らかになった12件の朝鮮同胞虐殺事件中の5件までが記載されている。

 しかし、今回明らかにされた調査表は、軍隊による虐殺事例が数的に多いこともあるが、調査表の作成者が当の戒厳司令部であるという、のっぴきならぬ事実という点でまったく重みが違う。

 ならば、関東大震災時の朝鮮人虐殺に、軍隊が直接手を下したことが明らかになることがなぜ重大問題なのか。

 それは、ほぼ3点に要約される。

 その一は、軍隊の朝鮮人虐殺関与問題は、ほとんど明らかにされたことがなく、前述のみすず本の司法省極秘文書も、一級資料には間違いないが、あの軍隊関与事実の元資料が何に拠っていたのかは明らかでなかった。

 つまり、軍隊の朝鮮人虐殺関与は不明とされる部分が多かったのである。それが、このたび当の戒厳司令部自身がまとめた調査表が出たのである。

 その二は、あの大震災時、6400余人の朝鮮同胞虐殺は、軍・警察が先行し、民衆がこれを見て、心おきなく、それこそ大手を振って虐殺を敢行した図式が判然と浮かび上がったことである。自警団と称する民衆組織が、関東各地で大量虐殺するのは9月4日から5日に最盛期を迎えるが、この戒厳司令部調査表の20件中、9月1日から3日までの虐殺件数は10件にのぼっている。早いものは9月1日夜中に1件、2日に3件、そして3日は6件である。

 一般民衆としては、内務・警察による朝鮮人暴動、放火、投毒宣伝で十分に思想的、感情的下地ができているところでの軍隊による虐殺という「模範」を示されたので、堰を切ったように朝鮮人殺しに狂奔するのである。

 その三は、後に中国侵略時、顕著となる、軍が独断専行して政府が追認するという図式が、この時すでにできていたということである。

 以上3点の指摘だけでも、この調査表公表の意義がいかに大きいかが理解できよう。

 軍隊による朝鮮人虐殺の事実例は、幾人かの知識人によっても明らかにされている。

 田辺貞之助(後に東大教授)の家は震災時軍隊の宿泊所とされ、「剣付き鉄砲の軍隊」が剣をみがくのだが、「刃金にしみこんだ血のしみがなかなかおちない」とある。その剣は朝鮮人を刺殺したもので、9月4日のことである(「女木川界隈」)。

 清水幾太郎は自家が潰れ、逃れて亀戸に入り平井駅の方まで来る。「夜、……、私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の血を洗っていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました」(「大震災は私を変えた」)。

 後のプロレタリア作家、越中谷利一は、大震災時、問題の千葉習志野騎兵第十三聯隊所属の軍人であった。戦前に書いた彼の「一兵卒の震災手記」と「戒厳令と兵卒」でのこの部隊の朝鮮人虐殺ぶりはリアルである。

 日本政府の中心部内務省によって故なき流言と結びつけて戒厳令が発布され、内務省警保局長によって朝鮮人暴動が全国に伝播され、軍隊によって朝鮮人殺しが先導された。

 これを国家犯罪と呼ぶことは、不当であろうか。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2008.8.1]