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「北関大捷碑」 研究事業推進

碑文内容の解説案内板も設置

 朝鮮で「北関大捷碑」に関する研究と保存事業が進められている。

 「北関大捷碑」は、壬辰倭乱(1592〜1598)で鄭文孚義兵隊が北関(摩天嶺以北の咸鏡北道地方)に侵入した日本軍を撃退したたたかいでの勝利を記念して建てられた碑だ。

 記録によると鄭文孚は26歳の若さで、咸鏡道の北評事に任命され現地に赴き、壬辰倭乱で義兵将となった。

 鄭文孚義兵隊のたたかいは壬辰倭乱の局面の転換に寄与し、朝鮮の民衆を反侵略闘争へと奮い立たせた。

 その後、咸鏡道の北評事に任命された崔昌大が中心となって咸鏡道義兵隊の闘争成果を記念して1708年に当時の吉州郡臨溟(現在の咸鏡北道金策市臨溟里)に建てたのが「北関大捷碑」だ。

 「北関大捷碑」は日露戦争(1904〜1905)の時に日本軍によって略奪され、長く「靖国神社」の片隅に放置されていたが、2005年に北南が力を合わせて返還を実現した。

 「北関大捷碑」は碑身の高さが1メートル84センチ、幅66センチ、厚さ13センチ、碑に刻まれた文字は1400字余り。碑の前面上段には、「北関大捷碑」と篆書体(漢字書体の一種)で横書きされている。碑文は、序文と銘(碑に刻む詩形式になった文)で構成されている。

 碑文の翻訳を担当した社会科学院民族古典研究所のチェ・トンオン氏(72)によると、碑文内容は次のようになる。

 序文で、鄭文孚が指揮した咸鏡道義兵闘争の意義、日本軍の侵略経緯と反逆者たちの行い、鄭文孚義兵隊の組織過程と義兵隊が繰り広げた主要な戦闘、碑を建てるようになった経緯が明らかにされている。

 そして、鄭文孚義兵隊のたたかいは李舜臣の閑山島海戦、権慄の幸州山城の戦い、李廷★の延安城の戦いに劣らないものであったと評価している。

 また日本の侵略目的を明らかにし、敵が小西行長と加藤清正を筆頭に西方と東方の方面に分かれて進撃してきたことに言及、加藤清正の侵略隊は鉄嶺を越えて咸鏡道深部にまで侵入したが、咸鏡道の愛国的民衆らが鄭文孚を大将にして義兵隊を組織し、逆賊らを処断し侵略軍を撃破したと書かれている。

 この勝利を契機に義兵隊は7000人余りに増え、臨溟、雙浦などで展開された戦闘で、敵陣に甚大な打撃を与え勝利を収めた。そして端川での戦闘後に白塔で最後の戦闘を繰り広げて敵を撃破、咸鏡道全地域から日本軍を掃討したと指摘されている。

 碑が建てられた経緯については、北評事の崔昌大が義兵の子孫、縁故者たちと会い詳細な史跡を調べたところ、非常に大きな戦功がある北関に記念碑が一つもないことを遺憾に思い、そこに碑を建てることを発起、多くの人々がそれに応じたという。

 序文の後には銘が記されている。そこには日本軍の侵略に対して義兵らが奮い立ち勇敢にたたかったことによって、北関の地が平定され百姓が再び平和に農業をいそしむことができるようになった、臨溟の丘高く碑を建ててその戦勝の事実を子孫万代にわたって永久に伝えると書かれている。

 チェ氏は、「北関大捷碑」碑文を翻訳する過程を通じて「数百年前、日本が朝鮮に対して犯した罪をさらに深く知ることができた」と話す。

 翻訳された碑文内容は「北関大捷碑」の横に建てられる解説案内板に記されるという。【平壌支局】

★=香へんに奄

[朝鮮新報 2008.6.25]