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〈投稿〉 38度線を引いたのは誰か

 同じ国土に住む同じ一つの民族が人為的に分断され、計り知れない苦痛を受けながら60余年も耐えている不幸な事態が今もなお朝鮮で続いている。

 朝鮮のこの悲劇は、米国とソ連によって北緯38度線が画定されたことによって発生した。

 朝鮮の東西海岸を結ぶ約180キロメートルの区間に引かれ国土分断と民族分裂をもたらしたこの38度線は、いつ、どのようにして引かれたのであろうか。

 よく知られているように、第2次大戦でドイツと日本の敗北が明らかになった時点で戦後処理に関する連合国のカイロ、ヤルタ、ポツダム会談がもたれたが、世界の全般的な問題とともに朝鮮の解放と独立に関する一般原則がここで取り決められた。

 しかしトルーマンも明らかにしているように、これらの会談では北緯38度線による朝鮮分割の問題は論議されていない(「回顧録」恒文社版)。

 北緯38度線の問題が最初に公式文書に現れるのは1945年9月2日付「連合国最高司令部一般命令第1号」であるが、これはアジア各戦線における日本軍の降伏受託と武装解除に関する連合国側の地域分担を決定したものであった。

 これによって満州、朝鮮半島の北緯38度線以北の朝鮮、樺太と千島列島は旧ソ連軍が分担した。この以南地域、日本本土、琉球諸島およびフィリピン諸島は米軍が、インドシナの16度線以北は中国軍が、以南地域とビルマ、ソロモン諸島は英軍が分担した。

 すなわち38度線は当初、無条件降伏した日本軍の武装解除のための地域分担から出発したのであるが、冷戦の激化にともない政治的、軍事的対決の境界線として固定化したのである。

 この間の事情についてはトルーマンの「回顧録」に比較的多く触れられているが、当時の情勢を見れば8月6、9日に広島、長崎に原爆投下、8日にはソ連が対日宣戦を布告し9日にはすでに朝鮮に進撃していた。

 日本政府は8月10日には中立国スイスを通じてポツダム宣言受託の意向を伝えており、日本の無条件降伏は時間の問題となっていた。関東軍が崩壊し朝鮮駐屯軍も無力化した状況のもとで、ソ連軍はそのまま南進すれば全朝鮮の占領も可能な態勢にあった。

 しかし米軍は当時、まだ朝鮮から1000キロメートルほど離れている沖縄にいた。

 米国としては、事態をこのまま放置しておくわけにはいかなくなった。この緊急事態に対処して米国は国務省、陸軍省、海軍省合同調査委員会(SWNCC)を8月10日に急遽召集し対策をたてた。SWNCCは本来、日本の降伏、武装解除、日本占領、戦後対策のための政策を立案するために組織されたものであるが、この緊急会議では米国の太平洋方面総司令官であるマッカーサーにおくる緊急指令が作成された。

 朝鮮を北緯38度線で分割し、ソ連軍と米軍が日本軍の武装解除を分担する案はここで初めて具体的に提起されたのである。これを実際に立案、提起したのは米陸軍参謀部のディーン・ラスクとチャールス・ボンスチールの二人であった。

 ラスクは後に、ケネディとジョンソン大統領当時に国務長官をつとめボンスチールは駐韓国連軍司令官となるのであるが、この二人の米国人大佐による草案はSWNCC緊急会議で採択されトルーマン大統領の批准をへてソ連、中国、英国の同意の下にマッカーサーに伝達され「一般命令第1号」となった。

 当時、国務長官であったバーンズは朝鮮と満州の工業地帯をできるだけ多く占領し、賠償問題でもソ連に独り占めさせないために米軍は朝鮮の可能なかぎり北の地域まで進出しなければならないと主張した。しかし、この案は採択されなかった。

 トルーマンはその理由について「回顧録」で述べているが、すでに朝鮮に進出しているソ連軍に撤退しろとはいえなかったし、なによりも1000キロメートルも離れた沖縄にいる米軍を朝鮮に急速に移動することは不可能であったことをあげている。かれは当時の軍事情勢からすれば、米軍は38度線はおろか、さらに南方に配置することになっていたかもしれないとさえ言っている。

 トルーマンは、有利な軍事態勢にあるソ連軍がはたして米国の提案する38度線による分割案をなんのクレームもなしに受け入れるだろうかと不安であったというが、ソ連側が意外にも承諾したので、かえって「驚いた」と述べている。

 ソ連側が、北緯38度線分割の米国案に妥協した理由については今のところ公式の資料は見当たらない。

 しかしここで注目されるのは、ソ連が1945年8月10日付で北海道を釧路から留萌にいたる線で2分し北部にソ連軍が進駐することを米国に要求していることである。

 日本単独占領を計画している米国はもちろん拒否しているが、これにたいして論者のなかにはソ連が38度線で妥協したのは北海道北部の占領と引き換えに取引として利用したのではないかとする分析がある。

 また当時、ソ連と米国は東欧でポーランド、ユーゴスラビア問題で鋭く対立していたので、その解決のためアジアでは妥協したとする説やソ連としては長年の念願であったアジアにおける不凍港(旅順など)を得たのであるからそれ以上の対立激化を望まなかったとする論もある。

 いずれにせよ、北緯38度線による朝鮮分割は日本の無条件降伏直前に米国が対ソ戦略の一環として立案したものであり、その具体的な草案は朝鮮の事情について何も知らない、ましてや朝鮮民族の運命やこの分割がどのような悲劇をもたらすかについて全く関心のない36歳の米国人大佐(ラスク)らが起草し米大統領によって批准されたものであった。

 また、ソ連について見れば、朝鮮を38度線で分割することなく南朝鮮全域に進駐する条件が備わっていたにもかかわらず、いろいろな理由で自国の国益を優先させ、米国の提案する朝鮮分割案に何の反対もせず妥協したということである。

 北緯38度線による国土分割、民族分裂は朝鮮人民が望んだことでもなければ朝鮮人民が参加した協議の結果による結論でもない。それは、朝鮮の歴史も実情も全く考慮することなく大国のそれぞれの利害にもとづいて他国の領土の上に勝手に引いた人為的な線である。

 解放直後、民衆の心を強く捉えたつぎのような一口話がある。

 「미국을 믿지 말라 소련에 속지 말라 일본은 일떠 선다(米国を信用するな、ソ連に騙されるな、日本はまた立ち上がるぞ)」

 これは、平易な朝鮮語でたくみに語呂合わせ(太字の部分)をしたものであるが、38度線で勝手に民族を分裂させた米国とソ連にたいする不信と米国が朝鮮は分断させながら朝鮮を侵略した日本を手厚く庇護し、ふたたび危険な方向へ復活させていることに対する警戒感をあらわしたのであった。

 38度線の画定とその後の事態は、いくら国際的な宣言が採択されても外国が朝鮮人に独立をただでプレゼントすることはけっしてありえず、それは朝鮮人自身の主体的な努力によってのみ闘いとるものであることを教えた。

 解放以来60余年にわたる祖国の統一をめざす道は、北と南そして海外を問わず民族が力を合わせ止むことなくつづけてきた艱難辛苦にみちた闘いの歴史である。今日、情勢は大きく変化し朝鮮人民の前に黎明が訪れようとしているが、歴史的な6.15および10.4宣言に一貫する「わが民族同士で」の理念こそ栄光の勝利をもたらす保障であることを解放後の歴史は示している。

 38度線による民族分裂の悲劇は、自分自身の運命は自らの主体的な力で切り開いていかなければならないという深刻な教訓をわれわれに残したのである。(白宗元、歴史学博士)

[朝鮮新報 2008.1.16]