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〈平壌の高句麗遺跡を歩く-上-〉 檀君、東明王 始祖王の王陵を奉る

天下に号令 難攻不落の都

 高句麗は427年「長寿王15年に(集安から)平壌に都を移した」(「三国史記」)。遷都から1500年以上経った今日も平壌は高句麗の人々の息吹を感じられる場所だ。

 B.C.277年、高句麗の始祖王である東明聖王・朱蒙が現在の中国遼寧省桓仁に五女山城を築いて高句麗を建国したときから千年あまりの間、現在の中国東北地方と朝鮮半島の大部分の地域を占め、三国時代の歴史と文化の発展を主導し、東方の強大国として覇をとなえた高句麗。大城山文化遺跡管理所学術研究員の李定男さん(57)の案内で平壌市内の高句麗遺跡を訪ねた。

大城山城の威容

難攻不落の大城山城の石壁

 「約1500年前に先祖が生活していたこの場に立っていると思うと胸が躍りませんか」と、李さんは温和な口調で語りかけてきた。

 高句麗は平壌に遷都した折に、東明王朱蒙の陵墓を平壌市の真坡里、現在の龍山里の丘に移送するとともに、大城山一帯に安鶴宮(王宮)と大城山城(安鶴宮の防衛城)を建てた。当時の高句麗は大城山城を首都城として、防衛力を最大限に高めるため、立地選びに大きな関心を寄せたという。大城山城の城壁の周囲は7.6km(総延長9.284km)で高句麗の城壁中最大規模のものだ。蘇文峰から周囲を見渡すと向かい側に長寿峰が見え、乙支峰、北将台、国士峰、朱雀峰が連なっている。高句麗の山城は山の峰々に沿ってほぼ楕円形城壁を築く。この特異な地形を利用した大城山城は典型的高句麗山城だという。周囲より地理的に高い位置にあることから、城外にいる敵が内部を見ることができず、弓などの武具を撃っても城内まで届かない。また、約2.7km2の敷地内には、戦時には多くの人々が避難できた。

 大城山の南には大同江が流れ、西には合掌江が、東には長寿川があり、北には青龍山城の峰が連なっている。李さんはこのような地理的特徴から大城山城が「難攻不落の要塞」だと呼ばれたと説明した。

 現在、蘇文峰と乙支峰の間の40メートル区間には高句麗時代の城壁が残っている。高句麗の人々が積み上げた赤茶色の石に手をあてると当時の人々の姿が目の前に浮かんでくるようだ。

 大城山にはいたるところに水が湧き、井戸が多く年中水が溢れており水に困らないという。山城内部にある170あまりの池の中でもっとも高い位置にある「九竜池」は一辺の長さが18.2mの正方形で水深が3m、容積は約1000m3で100万リットルに相当する。これらの池には昔から伝わる伝説が多い。

不思議な現象

 蘇文峰から南側を見下ろすと四角形の跡を残す安鶴宮跡が見える。622m四方の城壁に囲まれ、敷地面積は約38万uに及ぶ。当時近隣のどの国にもこのような大規模の王宮はなかったという。

 「これを見てください」

 李さんが安鶴宮とその周辺の縮図版を取り出し、ある興味深い事実について話してくれた。人工衛星が撮影した写真で測定したところによると、安鶴宮と檀君陵(古朝鮮の始祖王檀君が葬られた墳墓)、東明王陵を線で結ぶと、安鶴宮を起点に直角三角形ができ、その距離を見ても安鶴宮−檀君陵21.7km、安鶴宮−東明王陵20.4kmとほぼ等しいというのだ。

 李さんは「この不思議な現象は偶然起こったことではない。高句麗の人々が重大な目的を達成するために高い科学技術と国家の総力をあげて創造した結果」だと説明する。

 高句麗は始祖王の陵を立派に構えることを首都建設の重要な目的のひとつと見なし、東明王陵を移し、それとともに平壌にあった古朝鮮の始祖檀君の墳墓を高句麗形式に改葬した。実際に93年に平壌で発掘された檀君陵は高句麗の典型的な墳墓の形式だった。

 「高句麗の人々は広大な領土と3000年の古い歴史をもち古代東方アジアの歴史を輝かせた古朝鮮の歴史を誇りに思ったのでしょう」

 高句麗王家と民は、強盛を誇った建国の始祖である東明王と朝鮮民族の始祖である檀君への尊崇の思いを抱いて、安鶴宮で2人の王陵を共に奉ずることができるように首都建設を行ったと考えられている。(文=呉陽希記者、写真=文光善記者)

[朝鮮新報 2008.1.15]