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〈朝鮮史から民族を考える 7〉 東アジア三国の分岐

資本主義発展の可能性を破壊

分岐の原因をめぐる論争

 近代の東アジアにおいて、日本は帝国主義的自立をとげ、朝鮮はほかならぬその日本の植民地となり、中国は帝国主義諸国の半植民地になった。こうした三国の分岐が生じた原因については、現在まで多くの論争が交わされている。

 講座派の服部之総は、幕末期の日本社会は「厳密な意味でのマニュファクチュア時代の端緒的段階」であったのに対し、中国・朝鮮などはそれより遅れた発展段階にあり、1860年代の経済水準の差が三国の近代における両極分解化の主因であるとした(いわゆる幕末厳マニュ段階説)。しかしその後、朝鮮・中国での「資本主義萌芽問題」の研究が進み、開国前夜の日・朝・中三国の経済はほぼ同一水準にあったことが実証されることによって、服部のシェーマには相当の難点があることが明らかになった。

 こうした問題状況のなかで、服部の一国史的比較史観を批判し、世界史的視点(関係史的視点)から東アジア三国相互の関係をとらえかえそうとしたのが遠山茂樹であった。そこでは、1860年代から80年代までの外圧は弛緩期にあり、日・中両国の歴史発展も同質の水準にあったが、三国の分岐が最終的に確定したのは日清戦争の後であるとされた。

外圧の強度の差

梶村秀樹

 さらに、遠山説を補強しながら東アジア地域史の再検討を試みたのが梶村秀樹である。梶村は、後進資本主義発展の成否にとって決定的な条件となるのは、決定的政治変革の時点に加えられる政治軍事的外圧の強度にほかならないとする方法論的立場から、日・中・朝三国それぞれを考察した。

 日本の場合、維新変革過程に介入しかけたイギリス・フランスにそれ以上本腰を入れる用意がなかったため、たまたま変革を挫折させるような外圧に出会うことなく変革過程を完了することができた。中国の場合は、二度にわたるアヘン戦争、太平天国鎮圧のための英仏軍の直接出動で明らかのように、政治軍事的外圧の強度は日本に比べはるかに大きかった。こうした危機的状況に対処すべく形成されたのが洋務派政権であったが、同政権は太平天国を外勢と結んで排除しながら登場することになったため、より広範な民族的力量を結集することができなかったばかりか、こうした客観的条件のため、上からの資本の保護・育成は緩慢なものとならざるをえなかった。このことが、結局、日清戦争の結果に影響してゆき、そこで日・中両国の分岐が決定的なものとなったのである。

 朝鮮の場合、欧米資本主義諸国だけではなく、日・中両国からの外圧にもさらされた。いわば二重三重の外圧に直面したのであり、これは日本・中国が直面した外圧とは、質・量とも根本的に異なっていた。とくに日本が早くから権力構造内部に食い込んで政治工作を展開し、変革主体そのものの軌跡を攪乱したために、上からの変革運動(開化運動)と下からの変革運動(農民運動)はその結合を妨げられたのである。こうして朝鮮は、最終的には1894年をもって一国的後進資本主義発展の可能性を、外から破壊されてしまったのである。

歴史における可能性、選択肢

石橋湛山

 いまだ日本では、日本があの時代に生き残るためには、帝国主義の道に進むほかなかったという弱肉強食の歴史観が通念化している。しかし、帝国主義側に加わることが主権国家になるための必須条件ではなかったはずだ。帝国主義ははたして日本に与えられた条件としての国際環境だったと言いうるのだろうか。強調すべきは、むしろ明治日本の行動そのものが、東アジアにおける帝国主義体制づくりに主導的な役割を果たしたという点である。

 帝国主義の時代にそれぞれの国が取りえた政策にどのような選択肢があったのかという問いを、歴史学は想定する必要があるのではなかろうか。日清戦争開戦前までは非大陸国家型の近代化の可能性が現実的に存在していたし、初期アジア主義のなかに見られた東アジア三国鼎立の構想、さらに石橋湛山の小日本主義も、今日から見れば、それなりに一定の現実性をもつものであったと思われるのである。

 帝国主義体制へ移行するまでに多様に存在した可能性、それぞれの決断を具体的に検証することなく、帝国主義と植民地・半植民地とに分かれた結果から歴史をさかのぼって類推することは、歴史認識の方法としてはあまりにも安易ではなかろうか。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.1.15]