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〈朝鮮の風物−その原風景 −6−〉 トゥレ(集落相互扶助組織)

農民の暮らしと農業を支える

 朝鮮には、古くから骨の折れる農作業を村民が集団で助け合っておこなう風習が存在した。李朝時代の風俗画にも農楽旗を先頭に銅鑼や鉦、太鼓など、農楽隊のにぎやかな楽にあわせて田植えや稲刈りに精をだす農民の姿が生き生きと描かれており、当時農民間で相互扶助がかなり活発だったことをうかがわせる。

 朝鮮ではこんにちでも、農閑期や農繁期の農作業の合間に農民が酒や食べ物を持ちよって村をあげて農楽戯に興じる光景をよく見かけるが、これもそのなごりといえよう。

 その農村の助け合い組織の代表格ともいえるものがトゥレ(두레)である。地方によっては名称や内容に違いはあるそうだが、トゥレというのがもっとも馴染まれた呼び方だという。トゥレとは、人々の集まった状態を意味する古語だそうで、転じて「共同」「集団」を指す名詞になったとされる。トゥレと似た組織にプマシ(품앗이)がある。

 プマシが小規模で個人的な関係で構成されるのに比べ、トゥレは村の成人男子のほぼ全員を網羅する集落的規模の組織という点でその性格は大いに異なる。

 この組織は基本的に下層農民で構成された集団であり、その構造は上下のタテ関係ではなく平等なヨコ関係だったことから、両班層の支配理念とは一線を画した存在だったようだ。

 トゥレは、新羅の郷歌の「兜卒歌」に出てくることからも、その歴史は三国時代まで遡るとみられるが、それが全国規模に広がるのは農業生産の発展とそれに伴って人口が急増した李朝時代後期になってからといわれる。

 トゥレは田植え、草取り、稲刈り、脱穀や灌漑の管理など、農民にとって最も骨の折れる農作業を集団の力で助け合って解決したので、村民は大いにこれを歓迎し積極的にその活動に参加した。とくに老弱者や働き手のない家族にとっては、トゥレの存在はまさに天の助けにも等しいものがあった。

 トゥレの活動は、単に集団労働にとどまらず、冠婚葬祭や、農楽遊戯、洞(村)祭の運営など、村民の生活文化に直結した多機能活動組織としての役割も果した。とくに田植えや稲の刈り入れなどの農作業時に集団の労働意欲をそそる大がかりな農楽戯や、豊作と村の繁栄・安寧を願ってとりおこなわれる洞(村)祭などは、トゥレの面目躍如たる活動の一つといえる。そのため一部地方では農楽戯を「トゥレ戯」とよぶところもある。

 ちなみに、日本では相互扶助組織を「結」とよぶが、黒澤明の「七人の侍」のラストシーンで村人が田楽の音に合わせて田植えをする場面が「結(ゆひ)」の集団作業である。朝鮮のトゥレの活動や農楽戯と比較してみると興味深い。

 農業生産と農民の生活を支え続けてきたトゥレも、近代化の波にもまれて姿を消したが、その伝統的相互扶助精神は様々な形となって今も民族社会の中に息づいている。(絵と文=洪永佑)

[朝鮮新報 2008.1.25]