若きアーティストたち(54) |
ダンサー 尹明希さん 現在、日本で呼ばれているコンテンポラリー・ダンスとは、従来のダンス様式や制度ではカテゴライズしえない「同時代的」「先鋭的」な表現などを指す。バレエ作品として上演されるものもあれば、ほとんど演劇、ほとんど映像、ほとんど動かない、などなど百花繚乱である。 尹さんが、独自の活動を始めて13年。地道に努力を重ね、多くのソロ作品を発表し続けてきた。 日本国内外において、「ダンスの根源的なエネルギーを伝える踊り…」と高く評価されている。 初級部4年から朝鮮舞踊を始めた。初期は踊ることに魅力を感じられなかったたという。が、初級部6年でその楽しさに気づき始めた。代理できた先生の指導を受けるうちに、われ知らず舞踊にのめり込んでいった。その年の学生芸術コンクールでは主役に抜擢された。「技術は高くなかった。ただ一生懸命、楽しく踊っていたから、その集中力を買われたのかな」と当時を振り返る。それからも、中・高級部と舞踊部に所属し、踊り続けた。 高級部卒業後、踊りを続けたいという思いで、金剛山歌劇団に入団。 数々の舞台に立ち、そして朝鮮の伝統舞踊・音楽に没入する中で、その本質でもある「個」と「即興性」に開眼したという。それを自分の形で表現したい−そう思い退団へ。
それから3年後の98年、尹さんに転機が訪れる。常に独自のダンス言語で時代を切り開いてきた山田せつ子さんのダンス観に共感し、彼女が主宰するダンスカンパニー「枇杷系」のメンバーとなった。 稽古は厳しいものだった。いわゆる舞踊が身についている分、初めは「逃してしまうもの」が多かった。稽古場に足を向けるものの、途中で帰ろうと思ったことは一度や二度ではない。 それでも、モノ作りの本質と向き合い、メンバーとの相互作用の中で「何か」を生み出すことは、かけがえのないことだった。 3年間を通じて、ダンスや人間に対する愛をはじめ、いろいろなカタチの愛に触れることで、今まで見ていた「景色」が変わった。 ダンスを「身体との対話」と、尹さんは言う。 自らの内的世界に深く降り立ち、そこから動きをすくい上げる。イマジネーションと身体を結びつける回路を拓いていく。これは、尹さんの考える、ダンスのだいごみの一つである。 「『私』はいろんな要素でできている」と、さまざまな経験、出会った人たちに感謝の気持ちを忘れない。朝鮮民族の血が流れていること、朝鮮舞踊に専念して得たものは、このダンスにも活かされているし、それは尹さんの個性でもある。 最近は、作品上演だけではなく、ワークショップや演劇、映像の世界での活動もあり、今までとは違う関わり方で社会との接点を広げていこうと考えている。「私は私の仕事で、もっと人の役に立ちたい」。日々、自身や社会を問い続けることを手放さずに、踊りと向き合っていく。 昨年は、ダンスワークショップを夏と冬に行うなど、活動の幅を広げてきた。 今後は、2月22、23日のアルテリオ小劇場(神奈川県川崎市)での新作ソロ「外出」の上演や、3〜4月はヨーロッパツアー、9〜10月は北米ツアーなどを予定している。(姜裕香記者) ※1970年生まれ。東京朝鮮第3初級学校、東京朝鮮中高級学校、平壌音楽舞踊大学(当時)専門部卒業後、金剛山歌劇団入団。95年から独自の活動を開始。数々のソロ作品を発表・上演。現在はフリーのダンサー、振付家として創作と活動の場を広げている。主な作品に「−Schein−」「Aktamokta≦」(第1回TORII AWARD大賞受賞)、「ペヴェラーダ」「交際とカナリア」など。 [朝鮮新報 2008.2.4] |