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〈朝鮮史から民族を考える 9〉 大韓帝国の歴史的性格

無能と無力強調 植民地支配を美化

朝鮮近代政治史・外交史研究の不振

李容翊

 19世紀末から20世紀初頭にかけての朝鮮史の記述は、おもに日清・日露の角逐をはじめとする帝国主義列強の動きと、義兵闘争・愛国啓蒙運動など植民地化の危機を打開しようとする民族運動に二分されている。いうならば、国際政治史的観点と民族運動史的観点である。

 これらの観点からの研究では、当時の朝鮮王朝の支配層は清・日・露・米など強大国の取引対象としてのみ登場し、支配層全体が親清派・親日派・親露派・親米派といった外勢依存集団として一面的に規定されるようになった。このような傾向は大韓帝国期の支配勢力の多様な動向を視野に入れた政治史、外交史の研究に不振をもたらすことになった。こうした中で、高宗のイメージは、押し寄せてくる外勢に正しく対応できず、結局、国権を日本に奪われてしまった無能な君主として定着してしまった。

 しかし、高宗に対するこのイメージは、もとより明治中期に日本の歴史家、言論人らによってつくられたものである。日本は高宗と大韓帝国政府の無能と無力をことさらに強調し、亡国の原因が全的に朝鮮内部の欠陥にあると描出することによって自分たちの植民地支配を正当化しようとしたのである。

「光武改革」と王権

 1896年の「俄館播遷」以後、自主独立と近代化への要求が急速に高まるなか、「三国干渉」によって生じた日露間の勢力争いの間隙を縫って、朝鮮王朝は1897年8月に年号を新しく「光武」と制定し、10月には国王を皇帝に、国号を「大韓帝国」に改称した。これはそれまでの中国との宗属関係を破棄し、近代的な国際法体系のもとへ、独立主権国家として参入することを内外に明らかにしようとするものであった。

高宗皇帝

 高宗は「旧本新参」(古い制度を基礎に新しいものを加味する)の立場から、皇帝権力の確立を中核とした近代的な国家体制の構築をめざして諸改革を実行する。内政では、宮内府の強化を通じて、@量田・地契発給事業A軍制の再編と軍備拡張B通信網整備C鉄道建設D商工業振興E中央銀行設立と幣制改革F各種学校設立と留学生派遣などに着手した。外交では、列強を競合させ、その勢力均衡の上にたって朝鮮の永世中立化を実現しようと構想し、1901年以後、日本・ベルギー・ロシアなどに列国共同保証による永世中立化案を提起していたが、日露開戦直前の1904年1月23日には「戦時局外中立」声明を世界に向けて発信した。韓国政府の局外中立声明は、イギリス・ドイツ・フランス・デンマーク・清国・イタリアがこれを承認した。

 しかし、これらの一連の内外政策の試みは、韓国政府の局外中立声明を無視した日本による日露開戦と韓国占領によって挫折してしまう。

 1897年から1904年初めにかけて実施された韓国政府の諸政策には、1960年代
末以来、朝鮮半島の南の歴史学者により「光武改革」という名称が与えられている。「光武改革」は皇帝権を強化して富国強兵を自主的に行おうとしたと評価されており、現在、学界からはこれといった異論がない。北でも、最近、この時期の諸政策について、その自主的・近代的な側面を高く評価するようになった。

 ただ立憲君主制をめざした甲午改革よりも王権が強化された点、日本の帝国憲法にある三権分立や国民の権利規定が大韓国国制(1899年制定の憲法)にない点など、王権の性格をめぐり立憲君主制構想であるのか専制君主制構想なのかをめぐっては、かなりの異論が残っている。しかし、ここで考慮すべきは、朝鮮における近代国民国家形成過程に外勢が介入し、一部官僚と結託し王権に対する威嚇と制約を加えたために、開化派官僚によって行われた立憲君主制国家をめざした甲申政変、甲午改革が広範な民衆の支持を得ることができなかったということである。また、王権集中をめぐって政府内で衝突が繰り返され、国家機構が弱体化するなかで、高宗は李容翊を中心とする皇帝側近の勤皇勢力に依拠し宮内府が主導する改革を進めていったということである。このような特殊な事情を考慮した場合、大韓帝国はその性格上、皇帝権を中心に近代国民国家を構想したという点で、専制君主制が近代的に変容した政権だったということができよう。

その限界性

 高宗とその側近勢力は、政府内で孤立していた。立憲君主制すら認めようとしないその近代国家樹立の試みには限界があった。

 また、税金負担増加による民衆の経済的没落は加速化し、各地で農民の抗租・抗税運動、活貧党闘争が日常化するなど民衆層からの広範な抵抗に直面した。

 とくに「乙巳五条約」強制調印以後には、専制君主国家を否定する動きがはっきりとあらわれてくる。新民会勢力は民権論を発展させて共和制に立脚した国民国家の建設を構想しはじめており、後期義兵闘争でも、前期の抗日・反開化および君主権擁護という目的から、抗日・反封建闘争の性格がいっそう明確になった。

 韓国併合前後に新民会や義兵の一部は満州や沿海州に移住し、より発展的な形である独立軍運動へと合流していった。彼ら独立運動家は3.1運動を契機に、「民主共和制」を掲げた「大韓民国臨時政府」をついに組織するに至るのである。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.2.8]