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〈朝鮮史から民族を考える 11〉 「乙巳五条約」の法的効力

朝・日会談の世界外交史的意義

「乙巳五条約」の法的効力問題の浮上

ウォルドック特別報告

 1905年の「乙巳五条約」は、日本による朝鮮植民地化の出発点となる条約であった。朝鮮では、「乙巳五条約」の強制調印直後から、この条約が無効であると主張する各階層の運動が連綿と展開されたが、解放後、米日を中心とする東アジアの冷戦体制構築の影で、その声はかき消され、久しく国際社会の表面に出ることがなかった。1952年に始まる「韓日会談」でも植民地責任問題は結局、うやむやにされてしまった。その頃の「乙巳五条約」に対する日本政府の公式的立場は、「正当・合法論」であった。

 時を経て、冷戦終結後、日本の戦後補償を求める運動が国際的な広がりで展開するようになり、1991年からの朝・日会談では、世界外交史上初めて、過去の植民地国と宗主国のあいだで植民地責任が主要テーマとして議論されることになった。このような中で、日本政府の立場は、戦争責任、植民地責任について「お詫び」をする方向に変わったが、その法的責任については頑として認めようとしない、「不当・合法論」であった。

 日本の過去責任問題をめぐっては外交交渉や補償要求運動の進展とともに、研究のレベルでもその解明作業が進んだ。中でも究明が遅れていた「乙巳五条約」など旧条約に関する研究が北南朝鮮、日本において本格的に行われるようになり、国際学術会議などの場でもこの問題が取り上げられた。一連の研究では、条約調印の事実究明と法的効力が主に論じられ、結果はほぼ「不当・不法(無効)論」と「不当・合法(有効)論」とに分かれた。

「不当、不法(無効)論」

「乙巳五条約」正本

 大まかに言って、北南朝鮮の学者や日本の笹川紀勝氏らは「不当・無効論」の根拠を次のように提示している。

 第一に、国家の代表者に向けての強制は「条約法に関するウィーン条約」(1969年採択)第51条に違反するばかりでなく、当時の慣習国際法にも違反するということである。彼らは「乙巳五条約」が日本軍の軍事的包囲のもとで、高宗皇帝と政府大臣への脅迫によってなされたものであるという具体的な諸事実を指摘し、1906年に発表されたフランスの国際法学者フランシス・レイの論文、1935年ハーヴァード報告書、そして1963年国連国際法委員会に提出されたウォルドック特別報告官の報告(条約法条約の草案)に、国家代表者への強制の事例の一つとして「乙巳五条約」が言及されていることなどを挙げながら、この条約締結の無効性を主張した。

 第二に、条約締結の手続きに国際法上の欠陥があるということである。条約署名者の全権委任状の欠如、韓国側首席代表(参政大臣=総理大臣)の不参加、外相官印は奪われたものであること、さらに高宗皇帝の批准書の欠如など、条約の法的形式が備わっていないと指摘している。

「不当・合法(有効)論」

「乙巳五賊」(左から李完用、朴齊純、李根澤、権思顯、李址鎔

 上記の主張に対して海野福寿、坂元茂樹両氏は異議を提起し、旧条約は侵略的ではあるが国際法的には適法性を備えているとして次のように主張した。

 第一に、国家代表者に対する脅迫の事実が条約法条約第51条および慣習国際法に該当するかどうかを確定するにはいまだ難点が残っている。まず、韓国政府側は軍事的包囲の状況下に置かれていたが、最後は高宗が同意(裁可)したではないかと言って、具体的な「事例」を挙げた。また、ウォルドック報告には国家代表者への脅迫の事例に「乙巳五条約」が示されているが、1966年の国連国際法委員会で採択された条約法最終草案第48条(国の代表者に対する強制による条約は無効)のコメンタリーには同条約への言及はないと指摘した。

 第二に、「乙巳五条約」は形式的適法性を備えているため有効であるとした。まず、条約文に署名できるのは国家首班だけでなく、署名権をもつ全権代表、また大使・公使、外相でもあったため、韓国外部大臣と日本全権公使が署名調印した同条約には形式上の問題はないとした。次に、国内法とは違って国際法のレベルでは、職務の性質上全権代表または大使・公使、外相には全権委任状を義務化しておらず、また国際条約には、批准要件の正式条約と批准要件を除外した略式条約とがあり、「乙巳五条約」は後者に属するものであるから法的効力上、何ら問題はないと指摘した。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.2.12]