top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 女性同盟支部委員長を28年務めた−車福順さん

「ウリナラにまっすぐな心で」

 神話の発祥の地とも呼ばれる宮崎県日向市高千穂で生まれた車福順・女性同盟西大阪支部顧問(77)。1913年(大正2年)、慶尚南道昌寧郡から父が渡日して実に17年目のことだった。

 「併合」の前年、日本に在留する同胞は800人足らずだったが、車さんの父が来た年には3635人に増えていた。

 「それでも当時はまだ朝鮮人が珍しいからと、下関や宮崎など行く先々では見物にくる日本人たちでごった返していた」という父の話を思い出すという。

事故で父が即死

昨年暮れから2カ月入院したが、元気を回復した車さん

 幼い頃の記憶はとにかく引っ越しばかりだった。学校に上がる前に大きなやけどを負ったとき、父がチゲ(しょいこ)に入れて病院に連れていってくれた記憶が車さんの胸を熱くする。

 その頃には山口県美祢郡(当時)伊佐町の小学校に通っていた。父はそこにあるセメント会社「東京石灰」で石を山から切り出しトロッコで運び出す危険な仕事に従事していた。41年のある日、山でトロッコが横転する事故に遭い、即死。享年56歳。母はまだ41歳だった。働き手を失っても何の補償も得られず、一家の暮らしは貧乏のどん底に突き落とされた。下にはまだ小学校に上がったばかりの妹と乳飲み子がいた。車さんは結局小学3年までしか学校に通えず、金持ちの家に子守り奉公に出されたという。

 43年。従兄弟を頼って大阪へ。旧制中学まで進んだ長兄に「白頭山のトラ」と畏れられた金日成将軍率いる抗日パルチザンの活躍を目を輝かせながら聞いたのもこの頃のこと。また、父方の大叔父が19年の3.1運動で捕まって日本軍によって銃殺された話も聞いた。日帝時代にも愛国の心を持ち続けた一族の来歴は、その後の生き方に大きな影響を及ぼしたという。

 大阪の空襲を避けるため岡山に疎開し、その後、解放をはさんで46年に17歳で結婚。相手はのちに総連大阪・住吉支部副委員長として同胞たちに尽くした尹支模さんである。「ウリナラにまっすぐな人だった。どこに住んでも真っ先に組織を訪ね、朝鮮新報を受け取る手続きをした」と若き日の夫を懐かしむ。

 長男が生まれて2カ月後に九州で4.24教育闘争に参加し、何日も夫婦で家を空けたこともあった。押し寄せる警官隊に対抗してとうがらしを撒いたりして、学校を死守しようと意気軒昂にたたかった。その夫も数年前に薬剤肝炎のため77歳で他界した。

学校、支部建設の財政

「心に力がある」と地域のオモニたちが称える

 建築業を営む夫を助けて飯場や帳簿を見ながら、山口県小野田市、愛知県名古屋市中村など日本各地を転々とした後、大阪市住吉区に引っ越したのが53年。ここで5人の子どもを育てながら女性同盟分会長、組織部長、副委員長の職をこなし、67年には37歳の若さで支部委員長に就任した。

 就任した直後から西大阪朝鮮初中級学校(当時)の建設、翌年には大阪朝鮮高級学校の新校舎建設、翌々年には総連住吉支部の建設がスタートした。

 「財政を作るために同胞の家々を一軒一軒回って、カンパを集めた。例えバラックに住んでいても、学校に役立ててほしいと5千円出してくれた同胞もいた。家の事情にあわせて1万円、2万円出してくれて…。民団の家を訪ねたときに2万円出してくれた人もいた。また、足を棒にしていろいろな家を訪ねたが、中には表札が『新井』『岩本』『金本』などとあるのを『朴』『李』『金』などと見当をつけて、『アンニョンハシムニカ』と玄関をくぐり、民族教育への協力とカンパを懸命に頼んだ。すると、実は同胞だと名乗って、カンパしてくれた」

 その頃は、昼から夜まで焼肉屋をしながら、仕事の合間を縫って、同胞の家を回るので、「いったい姉さんはいつ寝るのか、でも、姉さんが来るとお金を出す気になるから不思議だ」などといわれたという。自分の家でおかず代を節約しながら10万円を出してくれた人、日雇い人夫をしながら10万円を渡してくれた人…、ウリハッキョのために犠牲をいとわず厚志を捧げた同胞たちを思い出し、涙を堪えきれない車さん。

 昨年暮れから、腰の骨折のため2カ月も入院を余儀なくされたが、ひっきりなしに見舞う同胞たちや家族、孫たちの励ましを受けて、今年1月の半ばに元気に退院。その第一声は支部の活動家に「新報を家にまた入れといてや」だった。

 「日本のテレビのニュースは見たくない。(朝鮮にとって)いいことを言えとは言わない。あたりまえのことを言え」と画面に向かって怒鳴ることも。

 かつて夫と暮らした家にいま一人暮らし。昨年10月、顧問の喜寿を祝った住吉地域のあるオモニは、「顧問は28年間支部委員長を務め、泣き言ひとついわずがんばってきた。学校や支部事務所を建てる財政も賄った。『心に力がある』としかいいようがない。その背中が私たちに無言の力を与えてくれる」と称えた。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.2.15]