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秀吉軍の朝鮮侵略と奴隷連行問題 今の朝・日関係考える原点に

ポルトガルの奴隷商人によって連行、売買

 私は30年ほど前、拙著「耳塚」で秀吉軍による鼻斬り、耳斬りの残酷性と悲惨さについて書いたが、その時、実は「奴隷連行」という項を立ててこの問題に触れたことがあった。

 400年前の日本軍侵攻時、多数の朝鮮同胞が日本に拉致連行されたことは、当時の諸戦記類や在留ヨーロッパ人、とくにキリスト教伝道者たちの本国への報告書、または江戸期日本人による記録や戦後の研究などによってかなりの程度明らかになっている。しかし、いずれも断片的といえるもので、未だまとまった形では発表されていないように思う。

秀吉の朝鮮侵略の残忍さを今に伝える京都の耳塚

 私にしても、これらをまとめえる資料を集めえたとはいえず、また年齢からくる制約性もあって非常に難しいことのように思う。ゆえに本稿では、問題提起に留めることにしたい。

 まず、奴隷連行という名称の問題がある。

 多くの同胞が拉致連行されたといっても、土着させられた人も多く、奴隷ではなかった、という観方もできよう。捕虜、被虜、俘虜の語のある所以である。しかし、拉致連行された同胞中、女性、児童の非戦闘員も多く、捕虜、俘虜呼称は正確ではない。しかも、女性、児童らはポルトガル人の奴隷商人によって奴隷船に積み込まれ、インドのゴアにあった奴隷市場で売買されてアジア各地に散らされている。ゆえに私は、日本に拉致連行された同胞の問題を総称して奴隷連行と呼ぶことにしている。

 第2に、奴隷連行数の問題である。「五万を下らなかった」と書いたのは山口正之氏(「朝鮮西教史」)である。また、日本での朝鮮人俘虜研究の権威、内藤雋輔氏は「五、六万人以上」としている。

 だが、徳川政権との国交回復後の連行同胞の本国への刷還数が1万人であったことや、姜が藤堂高虎家にいる1000余人の被連行者に帰国を説いて、容れられなかったこと(「看羊録」)や、多くの同胞が純然たる奴隷として売られていたことを勘案すると、「五、六万人以上」よりは、はるかに多い10万人以上の奴隷連行があったものと思う。

 第3に、朝鮮人奴隷連行に関する記述の例をみたい。「朝鮮からこの王国(日本)へも捕虜を満載した多数の船を運んで来た」(「日本王国記」アビラ・ヒロン)、「朝鮮人奴隷は…、驚くべき安値」(「東西印度航海記」イタリア人カルレッチ)、「文禄の役(壬辰倭乱)は日本国内のみならず、マカオ、マニラ、印度、交趾支那(ラオス、ベトナム、カンボジア地方)等にまで朝鮮俘虜を氾濫せしめた」(「朝鮮殉教史」浦川和三郎)、「日本人は多数の朝鮮人を捕へて二束三文で売り」(「切支丹伝道の興廃」姉崎正治)、「戦時の(朝鮮人)捕虜をポルトガル人が、ヨーロッパ、インド、および支那(中国)から将来した鉄砲・絹・煙草・その物品と交換したのが初まりであった」(「キリシタン大名」ミカエル・ミエタイミエン)。日本軍の大名たちは朝鮮で使う鉄砲を買う代価のため、朝鮮侵略の戦費調達のため朝鮮人を拉致して奴隷として売ったのである。

 第4に、「二束三文」と云われた奴隷の値段は具体的にはいくらだったのか。イタリア人カルレッチは長崎で5人の朝鮮人少年を12シリングで買い取ったという。この時、一人当りの買い値は銀25匁になるが(一匁は3.75グラム)、銀120匁で五人の朝鮮人奴隷を買ったことになる。考えられない安さだが、朝鮮人奴隷の供給源はそれほど豊富だったのである。

 第5に、朝鮮人奴隷たちはどうなったのか。

 日本国内に土着させられた人々は、農業、漁業、土木等の産業に従事し、学術、技術に優れた人々には藩儒、医者、陶工として、重く用いられた者もいる。しかし、前述したように、純然たる奴隷としてアジア各地に売られていった人々が多いのである。中には稀な例だが、イタリア人カルレッチのように、5人の少年奴隷のうち4人をゴアの奴隷市場で手放し、一人だけを連れて、南米経由で本国フローレンスに帰り、自由解放したのもある。

 土着させられた人々の中で、多くのキリシタンを見ることになるが、幕府の残酷な弾圧、拷問により、殉教した者も少なくなく、転ぶ(改宗する)人々もあった(「長崎・平戸町人別帳」)。

 また陶工として生きた人々も、永い間、実に耐えられないほどの侮蔑とあざけりの中を過ごさざるをえなかった。本稿では、その万分の一も紹介できない。

 遠くは400年前の朝鮮人大量殺りく、そして悲惨な奴隷連行、近くは60数年前の強制連行、「慰安婦」問題、日本ではこれらのことについての本質的解明がなされないままで、「拉致問題」だけが大問題となっていて、この「拉致問題」の原型が、秀吉軍による奴隷連行であったこと、その考究や調査はなされず、「拉致問題」よりは幾千倍、幾万倍の質量をなす大問題は政府もマスコミも知らぬ顔の半兵衛である。

 私は、400年前の大量殺りくに連なる「耳塚」問題と朝鮮人奴隷連行問題を、現在の朝鮮と日本の関係を考え直す原点の一つとして、双方の民族の人々に訴えていきたいと思っている。(琴秉洞、朝・日歴史研究家)

[朝鮮新報 2008.2.18]