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「朝鮮舞踊50年 朝鮮の名舞」東京公演実行委員長 申暢植さんに聞く

涙、涙のソウル公演に感激、民族の誇りを取り戻してくれた

ソウルで絶賛を浴びた金剛山歌劇団の公演

 「北と南がお互いを理解し、和解、統一するうえで芸術の力は大きい。なぜなら、芸術は人の感性に直接訴えるものだから」と申さんは指摘する。

 00年6.15共同宣言後、金剛山歌劇団のソウル公演を観た市民たちが、感動し、涙を流す理由もまさにそこにあると申さん。

 「創立以来、2〜4世へと世代交代しながらも、ひたすら民族の心を守り続けた歌劇団の足跡は、私たちの誇りである。それを南の人々が共有するようになったことはうれしいことである」と。

 申さんと金剛山歌劇団との出会いは実に半世紀以上も前のこと。まだ中央芸術団と呼ばれた時代である。北海道・小樽市のそば、岩内町の中学校2年のとき、偶然、校庭で芸術団の公演を観て「大きな衝撃を受けた」ことが原点だという。

 「美しくて、何より朝鮮人だという誇りにあふれた舞台だった。日本の学校で『キムチ臭い』と罵詈雑言を浴びせられ、いつの間にか民族虚無主義に陥っていた頭にガツーンとパンチを浴びせられた思いだった」

 そのことがきっかけで翌々年の59年、東京朝高に入学。そこの寮での生活がスタートした。「日帝時代に強制された創氏改名のそれまでの『たかやまから申暢植へ』。人生の一大転換点だった。ウリマルを習い始め、朝鮮語のうたも覚えた。そして、3年後には朝鮮大学理数科(当時)に進学した」。激動する時代。祖国への帰国事業の開始、朝鮮大学の新校舎完成、外国人法案反対闘争、韓日条約締結反対など、朝高、朝大の学生時代を通じて、燃えるような朝鮮人魂を培ったと振り返る。

 小学生のある日、住んでいた町の大半が大火で焼失したことがあった。取る物も取りあえず命からがら逃げおおせたものの厳寒の北海道で避難生活を余儀なくされた。

 「6畳2間での7人家族の暮らし。貧乏のどん底のなかでもオモニは、長男の私を東京朝高に送ってくれた。3歳くらいのときにオモニに子守唄代わりに寝る前に『ナヌンチョソンサラミヨ』と何度も何度も朝鮮語で言わされた記憶があった。そんなオモニだったからこそ、ウリハッキョに行きたいという私の背中を押してくれたのだと思う」

 その後、茨城朝高の物理の教員を経て、起業。会社経営の傍ら、金剛山歌劇団の大ファンとして一役買ってきた。

 「今の私があるのは、すべて組織のおかげ。高校、大学に行けたのも祖国からの奨学金のたまもの。学生時代を通じて家からの仕送りが数カ月途絶えても、一度も遅配されたことはなかった奨学金。それがどんなにありがたいものであったか。歌劇団を応援するのもそのときの『恩返し』。人として当たり前のことだと思う」

 28日の金剛山歌劇団の東京公演をぜひ成功させたいと力強く語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.2.18]