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〈人物で見る朝鮮科学史−46〉 世宗とその時代D

朝鮮前期最高の天文学者、李純之

天文観測の想像図

 国際天文学連合(IAU)は小惑星の命名権を発見者に与えているが、韓国天文研究院は普賢山天文台が発見した7つの小惑星に対して伝統社会の科学者たちの名をつけた。その7人とは崔茂宣、李蔵、蒋英実、李純之、許浚、洪大容、金正浩らであるが、ということは彼らこそ朝鮮科学史を代表する人物といえるだろう。そのなかの李蔵、蒋英実、李純之は世宗時代に活躍した人物であり、やはり、この時代の文化的隆盛をあらためてうかがい知ることができる。とくに、李純之は当時もっとも優れた天文学者で、18世紀ドイツの哲学者カントの星雲説に匹敵する独創的な宇宙論を提唱した洪大容とともに星の名にもっともふさわしい人物である。

 1406年ソウルに生まれた李純之は1427年に科挙の文科に及第、当初は承文院で外交関係の官職についていた。ところが、ある時、世宗からソウルの緯度を問われた際、即座に38度強と答えたことから書雲観の官吏となった。これが朝鮮前期最高の天文学者を生むきっかけになるのだから、人生なにが起こるかわからない。彼は生まれつき病弱で5歳になっても満足に喋ることができなかったが、母親の慈しみによって立派に成長した。ゆえに、母親が他界した時、出仕せず喪に服そうとしたのだが、世宗はそれを許さず逆に官位を上げた。それほどに世宗は李純之を信頼していたのであるが、ここにはもう一つ別の事情があった。当時は漢学こそが高尚なものという風潮があり、学者たちは算学や天文学を敬遠しており、いわば李純之は世宗の特命を受けていたのである。

七政算

 李純之が当代最高の天文学者と評価されるのは、朝鮮独自の暦書の実質的作成者であるからである。暦書には、季節の移り変わり、月の満ち欠け、日の出、日没、そして日・月食の日時が記されているが、とくに日・月食をあらかじめ知ることは天の意思によって政治を行うという為政者にとってもっとも重要な事項であった。現在はニュートン力学によって太陽系の惑星の位置は過去から未来まで正確に知ることができ、日・月食がいつ起こるのかも予測することができる。

 ところが、東洋では太陽や月の動きを観測し、それに基づいた経験則を求めてそれらの位置を予測するために、作成した暦書も時間とともに実際の運行とのズレが生じる。さらに、朝鮮では朝貢関係にあった中国の暦書を用いており、その場所の違いによるズレもあった。そこで、世宗は1432年に集賢殿の学者に天文理論の研究を、同時に李蔵、蒋英実らに天文観測器機の製作を命じたが、李純之はそれらの器機を用いて実際の観測を行うとともに、鄭麟趾、鄭招らの下で暦書の作成に心血を注いだ。そうして、10年後の1443年に完成した朝鮮独自の暦書、それが「七政算」である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.2.22]