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〈投稿〉 堂々としたオモニのチョゴリ姿

 それは私がまだ中学1年生の夏休みのことだったと思う。

 ある日、オモニが突然チマ・チョゴリに着替えだし、「ヨンガン、ついておいで」というのである。オモニの話では、京都本部に総連の偉い人が来るとのことだった。韓徳銖議長だったと思う。

女性同盟顧問たちの力強い歌声(07年10月5日、東京都内で)

 私は当時、日本の小学校を出て、中学からウリハッキョに通い出して初めての夏休みで、急についてこいと言われてもピンとこず、嫌だと言った。それに、チョゴリ姿のオモニと歩くのが恥ずかしかった。どうしてもついてこいと言うのでしぶしぶついていくことに。一緒に歩くのが恥ずかしいので、少し離れて歩いたり電車に乗ってついていく。オモニは私の心を、知ってか知らずか、おかまいなしに堂々と歩いていく。今、思えば、オモニのチマ・チョゴリを見たのは、それが最後だったかもしれない。アボジは私が小学校6年のときに先立ち、オモニは高校2年のときに亡くなった。

 一度も振り返らずに歩くオモニ、朝鮮人の誇りを身にまとい日本の道を堂々と歩くオモニ。その日はとくに夏の日差しがきつかった。

 どんな思いで歩いていたのか。そのときの私にはわかるはずもなく…。今思えば、「日本社会のなかで差別され、辛く貧しく苦しみながら生きているが、朝鮮人としての誇りを捨てずに生きていく、チマ・チョゴリを着ている私を見て馬鹿にしている日本人に絶対負けない」というオモニの意地の行進だったと思う。

 オモニ、そのときはわからずミアナンミダ(ごめんなさい)。京都本部に着くとすごい人だかりでチマ・チョゴリを着た人たちもいっぱいだった。はじめて見る本部も立派な建物で、すごい熱気に包まれていた。コリアンパワーを感じ、少しうれしく、感動したのを覚えている。その帰りもオモニに悪いと思いながらも少し離れて歩いていた。

 あの時私は、オモニと一緒に胸を張って歩けなかったけれど、オモニ、いま、私の子どもたちは胸を張って一緒に歩くだろう。もちろん、私も一緒です。

 あの夏の日、オモニが私に伝えたかったこと、それは、朝鮮民族の血が流れているお前は、朝鮮人として誇りを持って生きていきなさい、そして、誇りを持って生きている同胞の力を信じなさい、たとえ、時代がかわって、価値観がかわっても、決して自分に負けるな、という精神だったと思う。

 ずいぶん時間が流れ時代も変わったが、36年前のあの日のオモニを絶対忘れない。(金英貫・京都府城陽市在住)

[朝鮮新報 2008.2.22]