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〈人物で見る朝鮮科学史−47〉 世宗とその時代E

天文暦学の知識を伝えた朴安期

「天文類抄」の参縮図(オリオン座)

 七政とは日月と5つの惑星のことで、「七政算」はその運行を計算する書という意味である。当時まで朝鮮の暦書は中国から伝わった「授時暦」を用いていたが、そこに記された数値は朝鮮とは異なる。そこで、集賢殿の学者たちはその原理を習得し、朝鮮の実情に合う暦書を作成した。それが「七政算」内編である。さらに、アラビアの「回回暦」を検討し天文理論を補充したものが外編である。ゆえに、当時の最高水準の暦書といえるが、その高い評価は「世宗実録」に収録されていることからもうかがい知ることができる。

 「七政算」を中心とした朝鮮の暦学は日本にも影響を与えているが、特筆すべきは1643年に朝鮮通信使の製術官として来日した朴安期が、岡野井玄貞に天文暦学の知識を伝えたという事実である。というのも、岡野井玄貞は日本独自の「貞亨暦」を作成した幕府天文方・渋川春海の師であり、当然、何らかの影響を与えたと思われる。実際、渋川春海は「天象列次分野之図」と類似の天文図を残している。

 さて、李純之は「七政算」をはじめ10巻以上の天文書籍を刊行・校正しているがとくに重要なものに「諸家暦象集」と「天文類抄」がある。前者は天文・暦法・儀象・晷漏の4巻からなり、それまでの天文学的知識を整理したものである。また、後者は星座の様子を詳しく紹介したもので、両書は朝鮮王朝時代に天文学を学ぶ者たちの基本図書となっただけでなく、現代においても天文学史の貴重な資料となっている。

復元された石刻天文図

 とくに近年、注目を浴びているのは「諸家暦象集」の跋文にある観測結果をもとに1433年に天文図を石刻したという記述である。石刻天文図といえば、これまでも1395年に製作された「天象列次分野之図」をたびたび取り上げたが、世宗時代にも同様の天文図が製作されたのである。では、それはいったいどこにあるのだろうか。実は、灯台もと暗しというべきか、現在徳寿宮・宮中遺物博物館に展示されている「天象列次分野之図」の裏には別の天文図が刻まれており、これが世宗時代のものではないかといわれている。もっともそうなると、どちらが表か裏か、さらにどちらが果たして世宗時代のものかということ自体が問題となってくる。そこで星の位置を検討した結果、挿入図の右側が新しい観測結果をもとにした世宗時代のものと推定された。

 この星の観測を実際に担当したのは他ならぬ李純之であるが、「世宗実録」1449年5月の「近頃、天文を知るものは金淡と李純之のみである」という記述は彼に対する高い評価を示す。その後、李純之は世祖時代までも活躍したが、1465年にこの世を去った。彼の故郷である京畿道南楊州郡に墓所があり、官位2品以上の両班に許された墓碑である「神道碑」が立っている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.2.29]