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若きアーティストたち(55)

画家 崔賢徹さん

 東京・銀座の日動画廊で開かれた第43回「昭和会」展(1月31日〜2月7日)に招待作家として選ばれた。40年以上の歴史をもつ同展は、推薦公募制のコンクール。優れた作家の発掘・育成を目指す新進気鋭の美術家の登竜門として知られている。

 昨年8月に行われた同展の審査に、「アイデンティティーを求めて」という作品を2点出品。これは、祖父の故郷である南朝鮮の慶尚北道を訪れ、その風景を納めたものである。

 歴史ある展示会、また実力者が多い中での選抜に、崔さんは驚きと喜びを隠せなかった。

 「とにかくうれしかった。絵は、昔から好きだったから」。感想を述べながら、崔さんは遠い日を思い出す−。

 暇さえあればチラシの裏に絵を描いたという。初級部の先生が描く朝鮮画に魅了されたこともあった。絵に対する関心は、幼い頃から誰よりも深かった。

 サッカー部や器械体操部に所属しながらも、高級部からは絵を習いに画家の白蓉子さんのアトリエに通った。白さんは、絵の指導だけでなく、いろいろな人を紹介してくれ、画材や美術書籍を贈ってくれた。また、「絵」を投げ出したくなった時は、適切なアドバイスをくれたこともあった。崔さんの人生にとって、白さんはなくてはならない恩人だと言える。

第43回「昭和会」展に出品した「アイデンティティーを求めて」(2007年2月、油彩)

 朝鮮大学校卒業後は、南武朝鮮初級学校で2年間教べんを執った。教員生活のなかで、壁紙や学芸会の背景画、日本語の授業で使った象形文字の絵など、どんな絵を描いても、子どもたちから喜ばれた。その反応をみながら「オレ、やっぱり絵が好きなんだ」と、あらためて思った。そして、「どうせなら絵を職にしよう」と、その後の人生の過ごし方を定めた。

 退職後、日本デザイナー学院でイラストを学んだが、「ここで描くイラストやデザインは、自分がやりたいこととは違う」と感じた。そして、自分の考えや思いをそのまま絵に表現しようと思い、02年からフリーで活動を始めた。

 崔さんはまず、自己の存在を追求することをテーマにした。

 「絵は自身を伝えるもの。自分のことや自分のルーツをしっかり知らないことには、風景画もうまく描けない」

 名前にもこだわりを持つ。初めは「Sai」であったり「Choe」であったりとサインもまばらだったが、「名前はその人の分身」と思い、「Choe」で貫き通そうと決めた。「どういう生き方をするのか?」と自分に問いただした時、「Choe」が一番当てはまったと語る。

 社会風刺を描く画家が多い中で崔さんは、「社会を変えることよりも、まずは自分のために。絵に説得力があれば、観る人の心に響くはず。そのように主観と客観が一つになった時、名作が生まれるんじゃないかな」と。

 また、画家人生を振り返りながら「同胞をはじめ多くの人の支えがあって、今こうして絵を描き続けられている。だから、理解してくれる人たちへの感謝の心を持ち続けたい。また、スタートが遅かった分、時間を大切にしていきたい」と今後を見つめる。

 そして今回の展示会を通して、「他人の絵に囲まれてみて、まだまだ勉強が必要だと強く思った」と自覚しながら、「良い刺激にして、また一からがんばりたい」と、力強く意欲を語った。(姜裕香記者)

※1976年生まれ。鶴見朝鮮初級学校、神奈川朝鮮中高級学校(当時)卒業、画家・白蓉子に師事、朝鮮大学校師範教育学部3年制(当時)卒業後、南武朝鮮初級学校で教べんを執る。02年日本デザイナー学院グラフィックデザイン科を経てフリー活動を開始。イタリア、ベトナムなど各国を旅する。03年「第59回ハマ展」、06年「第42回神奈川県美術展」などに出品。その他個展やグループ展を開催。

[朝鮮新報 2008.3.3]