top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮史から民族を考える 12〉 反日義兵「戦争」

20年にわたる日本軍との交戦

交戦団体としての承認、外国に要請

後期義兵

 日清戦争開戦を目的とする日本軍大部隊の朝鮮侵入、そして王宮占領をきっかけに始まった反日義兵闘争は、その後1910年代前半まで、ほぼ20年間にわたって展開された。日本帝国主義は義兵を「暴徒」に矮小化しようとしたが、実態は、闘争の規模から見ても、義兵将の闘争観から見ても戦争に匹敵するものであった。

 各地に展開した義兵部隊の中でも注目されるのは、李麟栄・許らを義兵将とする13道倡義大陣所に集結した義兵連合部隊である。1908年1月末、許は300人の先遣隊を率いてソウル東大門から30里の地点まで肉薄したが、日本軍の攻撃の前に敗退を余儀なくされてしまった。許はソウル進攻に先んじてソウルの各国領事館に書状を送り、日本の不義を訴えるとともに、義兵部隊を国際法上の交戦団体として承認するよう要求した。

 交戦団体の資格は、1899年の第1回万国平和会議と1907年の第2回万国平和会議の「陸戦の法規慣例に関する規則」によって成文化されたが、許はこの戦争法規を念頭においていたと思われる。同規則の第一章では「交戦者の資格」について規定している。「交戦者」を正規軍だけに適用したのではなく、「民兵と義勇軍」にも適用している。第二章では、交戦当事者である戦闘員および非戦闘員は俘虜の待遇を受ける権利が保証されると規定した。

義兵側の膨大な犠牲者数

許蔿の一審判決文

 日本の鎮圧軍が編さんした義兵部隊に対する弾圧の統計が残っている(「朝鮮暴徒討伐誌」1913年)。この統計で注目すべきはまず、義兵側の膨大な犠牲者数である。1907年8月から1910年までの3年半の間に、日本側の「戦死」者は133人にすぎないが、義兵側の被「殺りく」者は133倍の1万7688人に達している。日清戦争における日本軍の戦死者を上回る数である。次に、「捕虜」の数が被「殺りく」者の9分の1に相当する1933人にすぎないことである。ほかの戦争の一般的な事例から比較しても戦死者よりも捕虜の数が極端に少ない。たぶん、義兵の投降の機会に乗じた虐殺が多々あったのだろう。また、「殺りく」された者には義兵とともに一般住民も含まれていたことは間違いない。「朝鮮暴徒討伐誌」が義兵側の死亡者を「戦死」としないで「殺りく」と書いたのも、一般住民を含む朝鮮人の大量虐殺を暗示している。

 ロンドン・デイリー・メール特派員としてソウルに滞留していたマッケンジーは、1907年の初秋、利川・堤川・原州などで日本軍によって焼き払われ廃墟と化した村を見て回り、義兵の根拠地にまで足を運び取材したが、このとき彼が書いた記録を見ても、まさに日本軍による義兵弾圧は焦土作戦であり、無差別虐殺であったことがわかる。

安重根の法廷闘争

 許が義兵を交戦団体として承認することを外国に要請した理由は、義兵を犯罪人として取り扱おうとする国内刑法の適用を停止させ、捕虜としての待遇をうける権利を保証し挙兵の正当性を確保するためであった。それまで日本軍は義兵将に対して「騒擾罪」の汚名を着せ彼らを極刑に処していた。

 伊藤博文を射殺した安重根は旅順監獄に投獄され、1910年2月に関東都督府高等法院で裁判をうけるが、彼は法廷で、「今回ノ凶行モ韓国ノ独立戦争ニ付、私ハ義兵ノ参謀中将トシテ韓国ノ為ニ致シタノデ、普通ノ刺客トシテ造ツタノデハアリマセヌ故ニ、私ハ今被告人デハナク、敵軍ノ為メニ捕虜トナッテ居ルノダト思ツテ居マス」と主張した。安重根に対していまだ一部では「テロリスト」という狭い評価があるが、彼は国の独立と「東洋平和」のために愛国啓蒙運動、反日義兵闘争に身を投じた思想家、愛国者であった。

 第三国が義兵部隊を、交戦団体として承認することになれば、日本は国際的監視下で交戦法規に違反する行動を抑制せねばならず、また局外中立の立場をとることになる承認国は、中立法規に基づいて対日関係を展開せざるをえず、その影響力は計り知れないものになる。これを恐れた伊藤統監は、1908年6月12日、「部隊長トシテ暴徒討伐ニ従事セラルル」陸軍将校に向かって、義兵闘争を「地方ノ騒擾」「盗賊ノ横行」に矮小化し、戦争法規が適用される内乱には相当しないことを繰り返し述べつつ、鎮圧部隊の自重を求めた。

「植民地戦争」

 大江志乃夫は、近代日本史に「植民地戦争」の概念を導入することを提起している。彼は、台湾、朝鮮という近代日本の重要な直轄植民地は、台湾に対する「下関条約」、朝鮮に対する「日韓保護条約」「韓国併合条約」という対外戦争後の条約締結という外交手段によって獲得したという通念的認識では不十分であると言う。台湾、朝鮮を植民地にするためにはその前提となる対外戦争だけでなく、植民地戦争というもう一つの大戦争が必要であったと適切に指摘している。

 韓国併合への過程は、列国間の獲物の分け前≠フための予定調和的な過程ではなく、日本軍と朝鮮民衆との実力抗争の様相がいっそう明確になる過程であった。反日義兵闘争は実に、日本の大規模な植民地侵略戦争に抗する祖国防衛戦争であった。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.3.7]