top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮史から民族を考える 13〉 3.1独立運動と「民族代表」

朝鮮のナショナリズムの原点

独立運動の主体的力量

土地調査事業

 1910年代の「武断統治」下の独立運動をめぐって、それは「閉塞期」のことであり、3.1運動はロシアの10月革命やウィルソンの民族自決主義に影響されたものであるという非常に皮相的な見方が一部にいまだある。しかし、現実には決してそうではない。この時期の国内外における民族運動は途切れることなしに続いており、その中で民衆の抵抗のエネルギーは着実に蓄積されていった。

 あらしのような弾圧の中でも、国内各地では独立義軍府、朝鮮国民会など多くの秘密結社が現われ活動しており、一方、近代的な民族教育内容に変わった書堂や労働夜学が民衆により身近な民族教育機関として普及していった。

 注目すべき点は、この時期の国内の民族運動が労働者・農民などの民衆運動へと方向を転換し始めたことである。当時、土地調査事業や増税に反発した農民・小商人は、測量妨害、土地・林野所有権紛争、駐在所・面事務所の襲撃など実に多様な闘争を展開していた。さらに第1次世界大戦を契機に日本の資本が急速に浸透し、労働者数が増加するに伴って、労働者のストライキも増えていった。

 国外では間島やシベリアに移動した義兵や新民会の人々が長期抗戦のための根拠地づくりを急いでいた。各地では自治団体、民族教育機関、軍事団体が組織され、それはやがて20年代に展開される独立軍の母体となった。言い換えれば、植民地下という状況のもとで、併合前の義兵闘争と愛国啓蒙運動の両者が見事に合流し、より先鋭化し、より大衆化した新たな抗日戦線が形成されうる段階にまで事が至ったのだといえよう。

 こういう主体的力量があったため、朝鮮の独立運動はロシア革命やウィルソン流の民族自決宣言の影響なども含めて、第1次大戦後の国際情勢にいち早く反応することができたのである。

3.1運動の特徴と意義

柳寛順

 このころ国外の独立団体では、パリ講和会議に朝鮮代表を送るための計画を展開しており、国内では天道教、キリスト教、学生などの団体がそれぞれ独立運動計画を立案していた。一方で民衆の間にも、1919年1月に死去した高宗が実は日本に毒殺されたのだという噂が飛びかい、民族意識がいやおうなしに高まっていた。そして2月8日、在日留学生が東京で独立宣言書を発表し、運動実践のために続々と帰国しはじめた。こうしたさまざまな動きがある中で、宗教団体指導者たちは、3月1日にソウルのパゴダ公園で独立宣言書を朗読する方針を決定したのである。

 しかし、決行前夜に、学生が翌日多数参加することを知った宗教団体指導者たちは、当日の発表場所をパゴダ公園から市内の料理店へと移し、朗読後になんと当局に自首してしまった。ところが、パゴダ公園に集合した学生・市民は宣言書朗読式を決行し、いっせいに「独立万歳」を高唱したあと市街に繰り出した。これに多くの民衆が合流し、数万人のデモが広がっていった。ソウルと同時に、平壌・義州・元山など北部の諸都市でも運動が始まった。運動はその後、各地へと拡大していき、3月下旬から4月上旬にかけて最高潮に達した。全国218の府郡のほとんどで蜂起が起こり、200万人以上が参加した。また、中国の間島をはじめ世界各地に居住する朝鮮人もみな、「独立万歳」のデモを行った。

 実に、3.1運動は、第1次世界大戦後初の大規模な反帝国主義運動として、中国の5.4運動など世界各地の民族運動を大いに鼓舞した。こうして、日本はその支配政策の変更を余儀なくされ、1920年代に至っては、「文化政治」なるものを標榜せざるをえなかった。

 3.1運動は、日本の米騒動や中国の5.4運動と抱き合わせに、東アジアにおける運動の新たな昂まりとしてよく一括して捉えられがちであるが、何よりも3.1運動の特徴は、民衆運動としてのその拡がりの大きさにあるといえる。文字通り民族をあげての独立運動であった。日本の暴力的な弾圧により7500余人の死者を出すに及んだが、そのほとんどが無名の人々であった。16歳で獄死した柳寛順はそうした人々の象徴である。

 こうした朝鮮民衆の3.1運動体験は、その後の独立運動の源流となった。独立運動家たちの伝記類(「白凡逸志」「わが抗日独立運動史」「アリランの歌」)を見ても、3.1運動の体験が彼らをして独立運動に参加せしめる契機だったことがよくわかる。3.1運動体験は「民族的記憶」としてその後も語り続けられ、現在でも朝鮮人のナショナリズムの原点として生き続けている。

「大正デモクラシー」と朝鮮

 1919年3.1運動、1920年間島大虐殺事件、1923年関東大震災虐殺事件は、いずれも日本の大正年間に起きた「事件」である。一般的に日本の大正時代はデモクラシーの時代であったと理解されているが、日本資本主義構造に組み込まれていた植民地朝鮮を含む「日本史」の総体から見ると、話は全く違ってくる。朝鮮人にとっては国内外のいずこに居住しようとも、大正年間はもっとも過酷な時代だったのである。

 「大正デモクラシー」の旗手といわれる吉野作造にしても、当時の朝鮮人に同情心を示したが、植民地支配そのものを否定することはなかった。当時、大多数の日本人は3.1運動を「騒擾事件」としてしか認識できず、朝鮮人に対する排外主義的な敵愾心を深めていった。こうした態度は、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件につながっていくものだった。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.3.10]