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〈朝鮮史から民族を考える 14〉 3.1独立運動と「民族代表」

世界の新しい気運反映

「民族代表」研究における通説の問題点

孫秉熙(「民族代表」の一人)

 3.1運動研究は朝鮮近代史研究の中でもっとも蓄積がある。とりあげられた論点は多岐にわたるが、とりわけ「民族代表」の評価をめぐっては、姜徳相―朴慶植論争に見られるような相反する見解がある。「民族代表」とは、独立宣言書に署名し「民族代表」を自称した天道教、キリスト教、仏教系の33人のことである。姜、朴の両氏は、「民族代表」が3.1運動の契機をつくったという点では一致しながらも、姜は彼らの対外依存性、民衆蔑視意識と運動の実際面での阻止的役割を強調している。これに対し朴は、そのような見解は当時の主客観的諸条件を無視した教条主義的観点であるとし、独立宣言書は政治的に高度な宣言書であること、非暴力の闘いは当時のもっとも大衆的・創造的な闘争形態であったことを強調している。このようなあい反する評価は、すでに1920年代から社会主義陣営と民族主義陣営との間でイデオロギー対立とも結びつきながら、なされていた。

「民族代表」と民族主義者一般を同一視

韓龍雲

 「民族代表」の評価をめぐる論争には、その前提となる事実関係の通説において二つの問題点がある。その一つは、「民族代表」と民族主義者一般を同一視していることである。朝鮮の民族運動は1910年前後に、民族運動の生命線ともいうべき反帝・反日的立場と闘争方法において妥協主義的潮流と非妥協主義的潮流に分化し始めていた。

 後者は、国の完全独立を掲げ非妥協的に闘ったが、前者は、「先実力養成、後独立」「法秩序の尊重」を強調し事実上独立運動から後退していった。たとえば、大韓協会や天道教の上層部は、「近代化」を標榜しながら統監府に接近し、その体制内での「自治」活動を繰り広げた。その後、非妥協的潮流は間島やシベリアなど国外に活動拠点を移し、独立運動を継続する。一方、妥協的潮流は、国内の宗教・教育機関に身を置いて、総督府体制と抵触しない範囲内で宗教・教育活動を行う。「民族代表」は10年代のこうした国内の妥協主義的な流れを汲むものであった。20年代「文化政治」下における民族改良主義の萌芽ともいうべきものが、すでにこの時期に見られるのである。

「民族代表」の独立運動の内実

1920年代のパゴダ公園

 二つ目に、「民族代表」の独立運動の内実についての通説が誤っている点である。従来の研究は、それを@独立宣言書の作成・発表、A日本政府・朝鮮総督府への意見書、米国大統領への請願書、パリ講和会議への意見書提出、B全民族的な示威運動、C三教(天道教・キリスト教・仏教)連合、D学生との連合とし、当日(3月1日)発表場所をパゴダ公園から朝鮮料理店泰和館に変更した「民族代表」の行動については、運動の暴動化と大衆の犠牲を憂慮した処置であると理解していた。

 しかし、運動計画と場所変更のこのような理解には矛盾がある。もしBとDの計画があったとすれば、わざわざ場所を変更する必要もなかったのである。従来の研究は、変更理由について十分に説明していない。

 では、なぜ「民族代表」の独立運動をこのように理解してしまったのであろうか。それはそれまで使っていた史料から多大に影響されていたためである。官憲側の判決文や調査資料などは、3.1運動の原動力や運動主体を「民族代表」や宗教団体に矮小化させているし、また「民族代表」の自叙伝、回想記、伝記などもあたかも自分が3.1運動を発起・計画したかのように描いている。いわば、従来の研究は、史料批判において問題があったのである。

 しかし、1980年代以降、「民族代表」に対する警察・検事・各級法院予審の訊問調書が公開されることによって、3.1運動研究はもっとも重要な史料を得ることができた。訊問調書を詳細に検討すると、「民族代表」には当初から「全民族的な示威運動」や「学生との連合」という計画はなかったことがわかる。

 彼らの運動は、日帝の「理性」に訴えて「自治」もしくは独立をめざすという妥協的性格、欧米列強の「同情」に期待するという外勢依存的性格、そして自分ら一部グループからなる上層運動的性格をもつものであった。

崔南善と韓龍雲

 姜在彦は、「民族代表」の一人であった韓龍雲の「朝鮮独立の書」は崔南善の「独立宣言書」を具体化したものであるとし、両文書を一体にして3.1運動の指導思想を考察したが、はたしてそのような研究方法は妥当であろうか。

 崔の独立宣言書を考察する場合、彼が書いたほかの文書(ウィルソンに送った請願書など)も同時に見なければならないであろう。韓は崔の請願書の内容が嘆願的にすぎていることに非常に驚き、これを批判している。反面、韓の「朝鮮独立の書」は、正義、平和、民族自決の時代がロシア革命、ドイツ革命によって切り開かれ、ポーランド、チェコ、アイルランド、朝鮮などの被圧迫民族によってそれは「昇天の気概と決河の勢い」で前進しているとし、ウィルソンの「民族自決宣言」提唱も、このような世界史の新しい機運を反映したものにすぎないとしている。反帝国主義・民族独立の主体的立場において両文書の相違は明らかであり、その後の両者の足跡がまた、そのことをはっきりと示している。

 前述した「民族代表」の独立運動の限界性は、3月1日のパゴダ公園からはじまる民衆の実際の行動によって乗り越えられていったのである。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.3.12]