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〈人物で見る朝鮮科学史−49〉 世宗とその時代G

世宗の信任をうけた名医

三木栄「朝鮮医学史および疾病史」の紹介文

 三木栄の大著「朝鮮医学史および疾病史」では、「医方類聚」を「実に現存医書としては古今東西に比を見ない浩瀚なもの」と評しているが、残念ながら本国に原本は存在せず、壬辰倭乱時に加藤清正が持ち帰ったとされるものが宮内庁書陵部に残されている。1861年に翻刻版が刊行され、近年ではハングル翻訳版が平壌で出版されている。

 盧重礼は世宗時代を代表する学者であると同時に、名医として誉れ高く、次のような逸話が残っている。ある文官が高熱を出し頭痛を訴えたとき、多くの医者は熱病と判断し薬を調合したが回復しなかった。そこで、盧重礼が診察することになったのだが、彼は高いところから落ちて受けた傷が原因として「傷元活血飲」という薬を処方した。当初は、患者もそんな記憶はないとしていたが、盧重礼の話をきいて、昔、崖から落ちたことを思い出し、薬によって回復したという。中人出身でその生い立ちは詳しく知られていないにかかわらず、このような逸話が残されているのは、盧重礼の功績が高く評価され数多くの記録が残されたためである。

「医方類聚」に収録された臓器図

 「郷薬集成方」「医方類聚」の編さんにおいて盧重礼が中心的役割を果たしたことはすでに述べたが、嬰児の死亡率の高さや、難産によって犠牲になる産婦たちに心を痛めた彼は、1434年に「胎産要録」という上下2巻からなる医書も著している。上巻は産婦人科、下巻は小児科に関するもので、「郷薬集成方」の翌年に刊行されたことを想起する時、盧重礼の医学に対する情熱をうかがい知ることができる。彼の評判を聞いてたくさんの患者が押し寄せたが、盧重礼は貴賎を問わず誠心誠意に治療を行ったという。

 さて、盧重礼が世宗の厚い信任をうけるようになったのは、天然痘にかかった世宗の妃と息子を助けたことによる。そこで世宗は中人である盧重礼に高い官位を与えるが、周辺の両班貴族はそのことに反感を覚える。そして、1446年に王妃が病死した時に責任を取らされ官位を剥奪された。世宗はしばらくして彼を復位させたが、今度はその世宗が1450年にこの世を去り再び官位を剥奪された。世宗の後を継いだ文宗もまた復位を願うが、そのさなかの1452年2月に盧重礼はこの世を去った。

 「もし医者が勝手な憶測によって主観的な治療を行えば、病気が治らないばかりか、患者に災いをおよぼすということを忘れてはならない。それゆえに医者は必ず謙虚な心で誠意を尽くし、どんな曖昧なことでも深く掘り下げ、病気の進行応対をよく確かめて、薬の作用にあうかどうかをよく調べて処方すべきである」。彼の著書の一節であるが、医師・盧重礼の人となりをうかがい知ることができる言葉である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.3.14]