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〈生涯現役〉 女性同盟中央江東支部委員長を43年務めた−金敬蘭さん〈上〉

枝川の歴史の生き証人

16歳から女性同盟の活動を続けて今年60年になる金さん

 生まれたのは山陰の小京都といわれる島根県津和野町(現在・市)。満州事変の翌年、1932年のことだった。慶尚北道から裸一貫で渡日してまもない両親には、雨露をしのぐ家もなく同胞たちでごった返す飯場の1階が仮の宿になった。小学校1年にあがるときに、山口県大津郡(現在の長門市)仙崎に移った。土木の仕事に就いたアボジはよく働く人で、その頃には大きな家に住むようになっていた。

 「家にはいつも青年や同胞たちが出入りして、オモニが彼らを温かく迎え、いつも炊事場に立ち、腹いっぱいたべさせていた」と懐かしそうに振り返った。

 小学生の頃は、学校でも差別がひどく、弁当に砂を入れられたり、「朝鮮人、キムチ臭い」などと罵声を浴びせられたという。その後、女学校に進み、解放を迎えた。翌年には国語講習所でウリマルや朝鮮の歌を学び、民青が主催する3.1学院主催の演劇の巡回公演に参加するなどめまぐるしい日々を過ごした。

 自宅の一部を朝聯の大津支部として提供、県内はもとより中央本部からも活動家たちが集う「拠点」になっていた。そんな中、後に敬蘭さんの夫となる金永植(登録名・李判述)さんと出会うことに。愛国の志が高い金青年をことのほか気に入ったオモニ・金守寛さんが、娘婿にと惚れ込んだのがきっかけ。「否も応もない時代だった」と敬蘭さんは照れる。

結婚式後、消えた新郎

東京第2初級の8.15の夜会では毎年300人分のタッケジャンを作っている

 48年には、共和国創建慶祝行事が盛大に組織された。オモニが「共和国国旗掲揚闘争」で力強く闘ったことは、今も同胞たちの語り草だ。この年、女性同盟山口・大津支部の初代委員長に就任したオモニを助けて、敬蘭さんも弱冠16歳で文化部長に。

 しかし、時代は暗転。朝聯は強制解散させられ、学校や同胞らへの弾圧の嵐が吹き荒れた。再び朝鮮半島に血生臭い戦争の影が忍び寄ろうとしていた。

 朝鮮戦争勃発の直前、50年4月27日、2人は結婚式を挙げた。敬蘭さん18歳、永植さん26歳の波乱の門出であった。身に危険が迫っていた永植さんは式の直後から、行方をくらまし地下活動へ。

 夫から連絡が来たのは数カ月後、その後、夫に従って広島、神戸へと移った。

 「51年には長男が、続いて次男、長女が次々と生まれたが、非合法活動中の夫は家に一銭も入れられない。内職をして母子が口に糊する暮らしだった」

 しかし、貧しさのどん底にあっても、オモニは娘に「祖国と同胞のために献身する夫を支え、同胞社会に尽くしなさい」といつも励ましたという。敬蘭さんは幼子を抱え、女性同盟西神戸支部六間道分会副分会長として活動を開始。同胞の家々400軒を受け持ち、古い自転車に乗って、会費を集めた。ときに会費の代わりに外米を出す家もあった。活動しながら同胞たちからウリマルを習い、風習や伝統を教わった。この時代が活動家の原点だったと懐かしむ。

 57年、総連結成後、中央組織部長に就任した夫について神奈川県川崎市へ。

 ここでも厳しい試練が待ち受けていた。あまりにも貧しい暮らしの中で、栄養不足が続いた敬蘭さんは肺病を患った。しかも胎内には新しい命が宿っていた。身を案じた夫の同僚たちがお金を持ち寄って一日三食、ポシンタンを食べるように勧めた。それまで口にしたことのない食べ物を「お腹の子どもを助けるために」毎食毎食6カ月間泣きながら食べ続けた。「おかげで健診に行ったら、胸の影が薄くなり、奇跡が起きたと医者にいわれた」。

 そして、戌年の58年11月、息子が元気な産声をあげた。現在、在日本朝鮮人体育連合会理事長を務める李清敬さんだ。翌年、江東区枝川に引越した敬蘭さんは請われて女性同盟江東支部(当時)委員長に就任した。以降、02年まで、実に43年間の長きにわたって職務を全うした。

闘いの最前線に立ち

 ごみの埋立地という枝川の居住環境はまさに劣悪だった。ここで46年間、東京朝鮮第2初級学校のオモニ会会長を務めた敬蘭さんは、「枝川の歴史の生き証人」でもある。学校を守る闘いの最前線に立ち、若い同胞父母たちを励まし続けてきた。

 「引っ越した当初、公園もなく路地裏で遊んでいた3〜4歳の子どもが交通事故に遭い、亡くなるという悲惨な事故が起きた。それで地域をあげて、朝・日のお母さんたちが団結して、子どもの安全のために、区や行政にかけあって交渉を重ねた結果、やっと公園ができた」と振り返る。

 これが、その後約半世紀も続いた学校を守る枝川の「子どもを守る闘い」の幕開けだった。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.3.14]