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〈生涯現役〉 女性同盟中央江東支部委員長を43年務めた−金敬蘭さん〈下〉

「お天道さんが見守っているよ」

「朝鮮に対する経済制裁の解除を求める女性のつどい」で在日同胞の被害実態について訴える金さん(6日、東京・永田町の参議院議員会館で)

 東京都との裁判で、すっかり全国区になった江東区枝川の東京朝鮮第2初級学校。ここに住んで来年で50年。

 「その頃の居住環境は最悪でした。ハエや蚊がわいてくるし、悪臭が漂う。食事のとき、ご飯にハエがたかって、米粒が見えなくなるほど。下水施設がなく、雨が降った後は、あたり一帯に水がたまり、共同便所の汚水が浮き上がって外を歩けないありさまだった」

 区や保健所に消毒液を分けてほしいと陳情に行ってもなかなかくれなかった。枝川はまさに、敗戦後も続く露骨な朝鮮人差別の象徴であった。

 敬蘭さんたちはそれを、どぶ板を洗うように粘り強く行政に訴えていった。

 タクシーもこの町に行くのを嫌がり、乗車を拒否されることも日常茶飯事だったという。都や区が自らの責任で住民のために必要な措置をとってくれたことなどなかった。同胞たちが劣悪な環境の改善に立ち向かい、ひとつひとつ解決してきたのだ。

「汗も涙も運動場に」

 「都内一のぼろ学校」といわれた東京第2初級の校舎の建て替えの話が出たのは63年頃。

 「旧校舎を壊すお金もないので、父母がハンマーやのこぎりを手に学校に集まった。ぬかるんだ運動場に、1メートル以上盛り土をした。アボジたちは1週間以上仕事を休んで、自分のトラックを持ち込み、自分のお金を出しながら、延べ数百台の砂利や土を運んでグラウンドを造成し、オモニたちは、おにぎりやスープの炊き出しをして懸命に手伝った」

朝鮮学校を支援するバザーで忙しく働く金さん(93年10月)

 オモニ会会長として実に46年。02年に顧問に退いた後も現役時代と同様、学校のために東奔西走する日々を送る。枝川裁判を闘うために集まった席で、学校と地域の歴史を話したとき、この裁判に身を捧げ、後に早逝した新美隆弁護士が感動の涙を流しながら、手を握ってくれたことが忘れられないと話す。

 自力で学校を建てたものの、経済難で運営はますます厳しくなっていった。先生の給料も遅配するなかで、オモニ会はリヤカーで古新聞やビン、カン、釘などを集めて売って学校に寄付したり、先生たちを家に招いて食事を出したり、考えられるあらゆる支援を続けてきた。

 毎年の運動会や8.15夜会には、敬蘭さんの陣頭指揮で三斗の朝鮮のもちや300人分のタッケジャン(鶏のスープ)、700個のゆで卵、キムチ、チヂミなどを作って、売った。その利益のすべてを学校に寄付。このタッケジャンは約半世紀続く枝川の風物詩。近隣の日本の主婦も楽しみにしていて、鍋を持って買いに来るという。

 今年50歳になる清敬さんはこう振りかえった。

 「オモニは運動会も授業参観も一度もわが子と過ごしたことがない。でも、その日常はこの50年の間、枝川のハッキョとともにあった。オモニの涙も汗もあの運動場の中に染み込んでいる」と。

 命がけで守った学校は、いまや同胞だけでなく共に学校を守ってくれた日本人住民たちにとっても憩いの場となった。学校行事になるとみなが一緒に焼肉に舌鼓をうち、サッカーや野球など互いに垣根なくつきあう場となっている。

 「昨日、今日のつきあいではない、もう50年になるから」と胸を張る敬蘭さん。困った人は放って置けない根っからの性分で、同胞はもとより日本人の冠婚葬祭の世話をしたり、年金や生活相談にのってあげた話は枚挙に暇がない。そんな敬蘭さんをよく知る銭湯の奥さんが「あんたをいつでもお天道さまが見守っているからね」とギュッと肩を抱いてくれた。

祖国訪問が楽しみ

 3年前に亡くなった夫の金永植さんは、朝鮮新報社副社長などを歴任した朝聯時代からの叩き上げの活動家。また、その人生は病との壮絶な闘いと共にあった。心筋梗塞、脳梗塞、脳血栓、胃がん…。どんな苦境にあっても弱音を吐かず、「信念をもって、最期まで潔く生きなさい」と家族を励ました。

 その父母の背中を見て育った長男・李清民さんは朝大1年の時帰国し、現在は万景台区域病院の副院長、次男・李大河さんは平壌医学大学第2病院院長の重責にある。

 6日、参議院議員会館で開かれた「朝鮮に対する経済制裁の解除を要める女性の集い」で、「万景峰92」号の入港禁止による被害の実態について切々と訴えると、会場では大きな拍手が沸き起こった。

 多忙な敬蘭さんにとって、毎年平壌を訪ねて子どもや孫たちの元気な顔を見るのが「何よりの楽しみ」。今、その海の道が理不尽にも閉ざされている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.3.17]