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済州4.3事件から60年 歴史の痛み抉り出す民衆の闘い

米軍政下で起きた無差別集団虐殺

米軍第59軍政中隊本部として使用された済州農業学校。米国星条旗が翻っている(米国立公文書館所蔵)

 平和の島と形容される済州島。青々とした海原に四方を囲まれたまぶしいほど美しい島である。ここが60年前、東アジア現代史上もっとも悲惨な済州4.3事件の酷苦が刻まれた舞台だと誰が想像するだろうか。

 06年4月には盧武鉉大統領(当時)が4.3事件犠牲者慰霊祭に「国家元首」として初めて出席し、公式謝罪した。

 長い冷戦によって封印されてきた4.3事件。米軍政下の南朝鮮単独選挙に反対し1948年、武装蜂起した島民に対して、軍隊、警察、反共自警団の討伐作戦で、少なくとも3〜8万人が虐殺された。まさに強要された祖国の分断に反対して奮い立った済州島民が、アカ≠ノ仕立てられて大量虐殺されたのだ。

 そして、朝鮮戦争の勃発。米国の冷戦政策は朝鮮民衆の自主的統一国家建設の念願を踏み躙り、民族分断を固定化させていった。反共イデオロギーに染まった朴正熙軍事政権はじめ歴代の軍事政権によって4.3事件の悲劇は抹殺され、封じ込まれてきたのだ。

4.3事件当時、警察の発砲した銃に撃たれ一生涯木綿の布≠ナあごを隠して生きてきたハルモニ(「体に刻まれた歴史の記憶」から)

 およそ30年が過ぎた1979年、作家・玄基栄氏の小説「順伊おばさん」が発表されたことによって、そのおぞましい記憶を蘇らせた。

 米軍政による済州島民大量殺りくを物語の背景に描く「順伊おばさん」は、50年以上前の麦畑での集団銃殺からただ一人生き残った女性が主人公。その時すでに精神異常を起こしていたのだが、その後30年を生き続け、結局その惨劇の記憶の重さに耐えかねて、2人の子どもが埋められている自分の麦畑で命を絶つ。

 玄氏はこの小説を発表した翌年の80年、国家保安司令部に連行され、むごい拷問を受け、その後遺症である心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだと告白した。当時、4.3事件の大虐殺、光州事件の民衆虐殺の惨劇は、打ち重なるものがあり、その事実を闇から闇へと抹殺しようとする政治風土が存在していたのだ。それらのタブーを打ち破って、人々が長い沈黙の末にあの悲惨な歴史を語り伝え、真相を明らかにしようとしたのは、80年代後半の民主化闘争の広がりによってだったと玄氏は指摘する。

 そして、人々の血のにじむ民主化の闘いによって、99年12月「済州4.3特別法」が制定され、これを通じて真相究明の作業が進むようになった。

 さらに忘れてならないのは4.3事件において南の民衆が米国の責任を厳しく追及している点だ。06年に刊行された「済州4.3」(済州4.3研究所編)は、当時の李承晩政権の焦土化作戦を黙認し、ジェノサイドを許した米国の罪を徹底的に追及しながら、次のように指弾する。

 「米軍政は、焦土化作戦を幇助し、警察を含めた討伐隊に武器を提供、人間が人間に、同族が同族に行う集団虐殺を眼を見開いて見守った。また、彼らはそのときの殺傷を『日々報告書』にいちいち記録した。にもかかわらず、彼らは口を開かないでいる…。

 韓国軍の作戦統制権を握っていた米軍は虐殺現場を放置したまま、ただ目撃しただけだという。このこと自体、米軍が大規模な民間人犠牲に対し責任を免れることはできない」 

 米軍はいまもイラクやアフガンで現地のかいらい政権を隠れみのにして4.3事件と同様、何の罪もない民衆を犠牲にする「反文明的、反人間的蛮行」を重ねている。

 一方、冷戦下の女性の受難について、国境を超えた真相調査に取り組んできた藤目ゆき大阪大学准教授は、98年に開かれた「済州島4.3事件」国際シンポに出席し、そこで恐るべき母性蹂躙の悲惨な実態を知った。

 「女の被害には、性拷問やレイプといった性暴力、妊産婦と胎児、乳児への虐待、殺傷という残酷さが際だっている。討伐隊員との結婚の強制など心身への深い傷に加え、長い間の社会的冷遇と経済的貧窮、女手一つで子どもを育てる中で嘗めた辛酸。女性たちは幾重もの苦難に満ちた人生を強いられたのである」

 藤目さんは、こうした隣国・朝鮮の人々の受難をそこで終わらせず、東アジアの地域や同時代という連関の中で、日本の現代史の深い闇を照らし出そうと研究を深めている。

 平和と人権の尊さを発信する平和運動の砦に変わりつつある島の軌跡。それは、祖国分断に断固として反対し、統一祖国を切望して犠牲になった人々へのレクイエムとなろう。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.3.28]