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ハンセン病「国賠訴訟」事務局長 李衛さんが死去

衰えなかった強靭な信念

ありし日の李衛さん

 ハンセン病元患者で、ハンセン病国家賠償訴訟全国原告団協議会(国賠訴訟)事務局長の李(国本)衛さんが、解難性胸部大動脈瘤破裂のため21日、死去した。享年81歳。67年にわたる在所生活であった。24日、多磨全生園の全生園会堂では故人と縁が深かった人々約300人が参列し、しめやかに園葬が営まれた。

 突然の死であった。ご本人にとっては無念であったと思う。05年に産声をあげたハンセン病市民学会共同代表として5月10日、東京では初めてとなる総会と交流集会の準備を進めている最中の悲報であった。総会で、李さんは主催者側を代表してあいさつする予定であった。2日間にわたって開かれるシンポジウムでも李さんは「戦争とハンセン病」をテーマに話すことになっていたのだ。国賠訴訟勝利から7年、「療養所の社会化」を実現するため心血を注ぐ日々だった。

 李さんは1926年、全羅南道光陽郡の片田舎に生まれた。4歳で母に連れられて、先に渡日していた父を頼って茨城県土浦に移住。

 41年5月。ハンセン病を発症した李さんは父に連れられて全生病院(多磨全生園の前身)に入院。14歳。入院とは名ばかり、「囚われ人」としての過酷な人生が始まった。病身にもかかわらず、軍隊調の規律のもとで、畑仕事や松根油精製などの強制労働に駆り出された。

 敗戦後も何ら変わらなかった。48年ハンセン病患者の断種の法制化、53年には終身隔離を規定したらい予防法など患者の人生を蹂躙する悪法が制定されていった。当時を振り返って李さんは著書「生きる日、燃ゆる日」(毎日新聞社刊)の中でこう綴っている。「生きるに値しない人間として生きてきた。気が遠くなる歳月。…父の死にも会えず、母の死にも会えず、社会から排除され、社会の裏側の闇の底で、それでもわたしは生きてきた。振り返れば虚しい日々があり、死と向き合う日々があり、気が狂いそうな日々があった」と。

 全生園で「朝鮮人のくせに」と白眼視されても、人間としての誇り高さ、民族としてのアイデンティティーを失うことはなかった。そして01年、国賠訴訟の事務局長として、熊本地裁で全面勝訴の判決を勝ち取った。

 人間の尊厳を取り戻そうとする強靭な信念、勇気は、生涯衰えることはなかった。その闘いの生涯に心からの敬意を捧げたい。(粉)

[朝鮮新報 2008.3.28]