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〈人物で見る朝鮮科学史−51〉 世宗とその時代I

朝鮮独自の暦書の基礎築く

鄭招をはじめ「七政算」の編さん者を伝える「世宗実録」

 1405年、文科に及第した鄭招は、2年後には司諫院正6品左正言となり、世宗の父である第3代・太宗王に仕えていた。その年の5月は酷い日照りとなり、太宗は臣下に自身に徳がないためかと尋ねた。他の官吏たちは口を閉ざす中、鄭招は税に関する新しい法が民を苦しめているからだと直言した。鄭招の性格を物語るが、その後、しばらくは彼に関する記録が見当たらないことから、むしろこれが災いして閑職に追いやられたのかもしれない。そんな彼が華々しく再登場するのは、1418年に第4代王となった世宗の経筵官となってからである。

 経筵官とは、王に経書を講論する官吏で、いわば学問の師である。もともと、才能豊かで易経、書経などいわゆる六経に深く通じていた鄭招への世宗の信任は厚く、彼が司諫院の正3品に昇進したあとも例外的に経筵官を兼任させた。

 ある時世宗が、「自分は宮中で育ったので民の苦労を知らない。どうすればいいか」と鄭招に尋ねたところ、彼は直接民から話を聞くべきと答えたという。世宗はそんな鄭招に「農事直説」の編さんを命じたのである。

三綱行実図

 「農事直説」についてはすでに紹介したが、この頃、鄭招は暦書の研究にも携わっていた。「世宗実録」1430年8月3日の記事は世宗の言葉として「以前には宣明暦の法だけを用いた結果誤りが多かったが、鄭招が授時暦の正確な計算をやり遂げて暦書の編纂が遂行できるようになった」と伝えている。1443年に朝鮮独自の暦書「七政算」が完成するが、その基礎を築いたのは鄭招といえる。

 また、鄭招は1434年の「三綱行実図」の編さんにも参与している。「三綱行実図」は、忠臣・孝子・烈女など個人の事績に関する資料を集め、文章とともに図で内容を紹介したもので、封建的道徳思想の教育を目的にしたものである。さらに鄭招は、楽譜「会礼文武楽章」、軍事書「癸丑陣書」の編纂も行っており、やはりその才能は異彩を放っている。

 鄭招がこの世を去ったのは1434年であるが、もし科挙に及第したのが20歳くらいであったなら50代で没したことになる。同世代の鄭麟趾は83歳まで生きて第6代の太祖時代には領議政まで上りつめ、世宗時代を代表する学者といわれるが、もしも鄭招が長生きしていれば、彼こそこの時代随一の学者と称されていたかもしれない。

 さて、世宗時代に活躍した人物とともに、この時代の科学技術的業績を紹介してきたが、特筆すべき事項がまだ残っている。すなわち、世界最初の雨量計「測雨器」の考案と朝鮮の固有文字「訓民正音」の創製である。この二つについては稿を改めて詳しく述べることにしたい。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.3.28]