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〈朝鮮史から民族を考える 15〉 民族主義と社会主義

広範な植民地民衆の台頭

「ブルジョア民族主義」「民族資本」

朝鮮物産奨励会のポスター

 3.1運動から後、1920年代に至って、民族解放闘争の主体はブルジョア民族運動から社会主義運動へと変わっていった。

 朝鮮の民族解放闘争史の中心課題の一つに、民族主義と社会主義との関係をどうとらえるかという問題がある。その場合、社会主義的でない民族運動の諸潮流は「ブルジョア民族主義」と一括してとらえられ、その階級的基礎が、「民族ブルジョアジー(=民族資本)」にあると難詰されているふしがままある。果たして本当にそうなのだろうか。

 「ブルジョア民族主義」という政治史的概念は、もともと1920年代初頭、レーニンにより、植民地・被圧迫民族の民族運動に対する関心から、非社会主義的な民族運動の諸潮流を指して用いられたものである。その後この用語は、言葉の独り歩きによって、その基礎が経済史的カテゴリーとしての「民族ブルジョアジー」にあると理解されてきた。しかし、断定的な規定をする段階にはまだ至っていなかったため、20年代前半までは民族ブルジョアジーを肯定的に評価していたコミンテルンが、27年の蒋介石反共クーデターによってその期待が裏切られるやいなや、一転してそれを打倒の対象と結論してしまうのであった。

 今日、一般に定着している「民族資本」というカテゴリーを確立したのは、1930年代末延安における毛沢東らであった。ここでは買弁資本と区別される「民族資本」が「ブルジョア民族運動」の担い手としてとらえられた。

 これらの概念は、半植民地中国においては一定のリアリティーをもっていた。まだ帝国主義と買弁資本に奪われきっていない「民族資本」の独自の経済領域は一定限存在しており、それゆえ「民族ブルジョアジー」は抗日戦争下においては、統一戦線の一翼を担う能動性を発揮することができた。

朝鮮人ブルジョアジーの軌跡

京城紡織株式会社

 しかし、梶村秀樹は、完全植民地の朝鮮では移植植民地経済とは別個の次元で朝鮮人ブルジョアジーの経済体系が「二重経済」的に成立し、民族資本が自由に活動できるといった領域が確保されることは、そもそもありえなかったとして次のように指摘している。

 実際のところ、「併合」前から1910年代にかけて日本帝国主義が土着資本の発展を阻止せんとする政策をとっている状況のもとで、朝鮮人ブルジョアジーは日本資本と競合し一定の民族的抗争の姿勢を示していたが、20年代にはいり日帝の懐柔政策の一環として、第1次大戦後に本格的に確立された日本独占資本に従属した範囲内で土着資本の発展が許容されるようになると、「従属発展の道」(政治的には独立国家放棄)か、あくまで一国資本主義発展の奪回(ブルジョアジー独立国家樹立)かという選択の岐路に立たされ、こうしてついには、30年代になって隷属的な姿勢をいっそう強めるという軌跡をたどっていった。完全植民化の状況にあって、土着資本が資本としての発展を望むかぎり、それは隷属的にならざるをえなかったのである。

 これを、当時の代表的な朝鮮人資本家である湖南財閥(金性洙・金年洙)を例に挙げてみると、1910年代に鉱山資本兼地主として存在していたものが、第1次大戦後に京城紡織を設立して産業資本に転化し、やがて関連部門にも展開していき、植民地経済体系内であるが、一応自立した産業資本として存在していた。その限りでこの時期は、隷属的であると同時にしかし民族的であった。湖南財閥・「東亜日報」グループを拠点とする、20年代の民族改良主義の台頭は、そのような状況に見合うものであった。しかし、30年代になると、日本帝国主義は「満鮮一体」をスローガンとして朝鮮人資本の満州への進出を奨励するようになり、湖南財閥はこれを積極的に受容し、太平洋戦争の時期に、資本の大半を満州へ移動させた。このような彼らの軌跡を今一度比喩的にいえば、1910年代には民族主義、20年代には民族改良主義(=妥協的民族主義)、そして30年代以降は、隷属的な姿勢を強めるというものであったということができよう。

民衆的民族主義

 要するに、完全植民地下の朝鮮には厳密な意味での民族ブルジョアジーは存在しなかったといえる。あったとすれば、自営業の域をあまり出ない、つまり単純再生産的たらざるをえない条件下の零細資本(=植民地的小ブルジョアジー)ぐらいなものであった。1920年代以降、朝鮮人ブルジョアジーの大半が次第に体制内化する中で、なお残る非妥協的民族主義運動の基盤は実はブルジョアジーではなく、零細農民を中心とする広範な植民地民衆にあった。植民地的小ブルジョアジーは、その独自の政治的代表者をもつよりは、むしろ、このような民衆に合流してその一角を担うことになる。

 1920年代以降の民族主義運動の基盤を植民地民衆におくことによって、はじめて社会主義的でない民族主義の諸潮流の展開を展望しうる視点をもつことができる。そのような民族主義をブルジョア民族主義と区別して、民衆的民族主義とよぼう。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.4.4]