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〈朝鮮史から民族を考える 16〉 民族主義と社会主義

初期共産主義への認識

マルクス主義の普及

李東輝

 3.1運動以後、インテリや学生・青年らは、民族解放闘争の新たな理念をマルクス主義に求めるようになっていく。朝鮮におけるマルクス主義は、国外の共産主義者グループ(上海派、イルクーツク派、北風会)を通じて国内に伝わっていった。各グループは競い合いつつ国内と連絡を取っていき、その結果1922〜23年頃には、マルクス主義を研究する思想サークル(ソウル派、火曜派、ML派など)が数多く生まれることになった。

 朝鮮におけるマルクス主義の普及は一定の特徴をもっている。第1に、日帝の弾圧の厳しさにもかかわらず、日本や中国のそれに比べ、普及の速さ、拡がりが特出していたことである。第2に、土着資本が脆弱であった朝鮮では、ほかの国に見られたような機会主義や修正主義などの影響をほとんど受けなかったことである。

 このような機運があったにもかかわらず、朝鮮共産党の創設(1925年)は、中国や日本よりも2、3年遅かった。その理由は、植民地統治下では公式の組織を立ち上げる条件がきわめて限られていたからである。そのため、共産主義運動は潜在化した形でしかあらわれることがなかった。しかし、実際そのエネルギーは日本や中国には比べようもなかった。

 例えば1922年にコミンテルンが主催した「極東民族大会」に参加した朝鮮の代表団は、じつに全参加者の3分の1を超え、日本や中国よりも格段に多かった。また、1918年にハバロフスクで在外活動家(李東輝など)により韓人社会党という最初の社会主義組織が創られたが、この組織年次は、日・中よりも早かったのである。

分派(セクト)主義の問題



新幹社の創立を知らせる新聞記事

 コミンテルンは1928年の第6回大会に際して、朝鮮共産党に支部としての承認を取り消した。その理由は、弾圧による指導部の崩壊と分派問題であるとされ、同年の朝鮮問題に関するいわゆる「12月テーゼ」では、労農大衆を基礎とする党再建を指示した。朝鮮共産主義者は、ほぞをかみながらも、「12月テーゼ」に忠実に、必死に労働者や農民の中に入っていった。朝鮮国内ではおよそ10に余る党再建の試みが、後を絶たずに続けられた。とくに統一戦線の新幹会運動や30年代前半の地域散発的な赤色労農組合運動の時期は、党が最も必要な時期であった。それにもかかわらず、コミンテルンは最後まで正式の再承認を与えなかったのである。

 党内外に相当の分派闘争があったことは事実であるが、それはあくまで克服されるべきものではあっても、党解散の絶対条件となりうるものだといえるだろうか。「分派は朝鮮の共産主義隊列にのみあったのではない。分派はドイツやソ連にもあったし、中国や日本にもあり、コミンテルン内にもあった。にもかかわらず、なぜひとり朝鮮人だけが分派的な習癖を気質としてもっている民族とみなされ、なぜ朝鮮共産主義者という名が分派の代名詞のように呼ばれなければならないのか」(金日成「世紀とともに」第4巻)。

 実際、28年以後の党再建運動の時期のほうが、朝鮮共産党が存在した時期よりもかえって運動の質や活動家層の厚みが増していった。党は小さかったし短命に終わったが、その後の活動はむしろ大きく粘り強く持続したということが、朝鮮共産主義運動の特徴であったといえよう。コミンテルンの態度は、朝鮮問題軽視の固定観念によるものとしか説明できない。

 朝鮮の初期共産主義運動の歴史をみる時もちろん、そこに、どこの国にもみられるその歴史的限界を認めつつも、それを今、全体としての民族解放闘争史の中に正当に位置づけなおすことも必要ではあるまいか。

社会主義的な民族主義者、民族主義的な社会主義者

 前回述べた民衆的民族主義者も、今回の社会主義者も、彼らはその表面的なイデオロギー対立にもかかわらず、具体的な闘争現場においては、多分に共通する課題を掲げていた。

 注目すべきは次の事実である。

 20〜30年代の民族解放闘争史を顧みると、民族主義運動は、民衆の生活現実に根ざす諸要求に応えようとする中で、単なるブルジョア国家としての独立の回復を超える「新しい社会」を希求していった。一方、共産主義運動を見ると、一時期、コミンテルンの「一国一党原則による現住国党加入方針」を受け、在外朝鮮人共産主義者は朝鮮革命とプロレタリア国際主義のはざまのなかで苦悩するが、35年の第7回大会の方針により、再び朝鮮革命固有の課題=抗日民族統一戦線運動を正面からとりあげていくようになる。

 朝鮮をはじめ第三世界の植民地諸国における民族主義と社会主義は、決して単なる二律背反ではなかった。

 一方は民族性にいくぶん重きを置き、他方は階級性をより多く強調しているだけのことであった。実態に則して言い表すならば、社会主義的な民族主義者、民族主義的な社会主義者であったといえる彼らがめざした建国の構想は、土地改革と進歩的民主主義を基礎に両者が広く結集した民族統一戦線的な体制=反帝半封建の人民民主主義革命の遂行であったのだ。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.4.7]